「クリエイティブファースト」で切り拓く、AI時代の未来型組織論
安田洋祐
wisdom.nec.com/ja/special/bl…
大手企業による半独占的な状況が生まれ、AIや新技術の台頭によって経済的な勝者と敗者が分かれる構図・歪みに対し、アセモグルは「経済の力だけでなく政治の力も活用しながら正しい選択をしていく必要がある。収奪的、略奪的ではなく、●包摂的な形でイノベーションを進めなければならない」と述べる
東アジア人の遺伝子ポイントはすべて飢饉耐性に全振りされている。
1、東アジア人は糖尿病にかかりやすい集団である。
2、東アジア人は筋肉をつけるのが特に遅く、つけた筋肉を維持しないとすぐに落ちる。
3、東アジアの集団は全体的に未来に対して悲観的で、これも悲観遺伝子と関連している。
一段非常有意思的东亚人基因的论述:
东亚人的基因点数全点在抗饥荒上了。
1、东亚人是最容易得糖尿病的种群。
原因是身上有一个基因,可以迅速把吃进的食物变成血糖。这样在饥荒发生时,随便吃两口东西就能保命。没有这个基因的人,在漫长的历史演化中被淘汰了。
2、东亚人练肌肉特别慢,同时如果不练肌肉掉的特别快。
这也是基因所决定的。肌肉本身也消耗能量,在饥荒发生时能迅速把能量供给到重要器官包括大脑,存活下来的几率会更高。所以就有一个基因可以在没有蛋白质摄入和锻炼的情况下把肌肉分解。
3、东亚种群对未来整体是偏悲观的,这也和一个悲观基因相关。
东亚有悲观基因的占整体的75%以上。而天天乐呵的非洲黑人有这个基因的不超过30%。
4、东亚人还嗜赌成性,这也与一个基因有关。
在面对环境剧烈变化时,黑人和白人相对适应较慢,但东亚人适应最快。而生活平平无奇时,东亚人则愿意寻找赌博类的游戏,增加这种变换带来的快感。
所以在东亚,梭哈是一种智慧。
バーガー買うのに、個人情報は必要か? “メガ漏えい”で露呈した「データ持ち過ぎ」問題、先進企業の対策は(ITmedia ビジネスオンライン) news.yahoo.co.jp/articles/ac…
店舗ではクレジットカードを読み取るだけで、番号入力や取引認証を決済専門の会社に任せれば、店側のサーバにカード番号は残らない。
バーガーキングも焼肉きんぐも、カード番号を持たない方法を採用していたことで、決済情報の漏えい被害を免れた。
フランス
問題の根には、国家が教育・都市政策・公共サービスを通じて応答する能力を失い、治安強化の言葉に依存していることがある。
「時代の底流にあるのは、革命の気運ではなく、ファシズムへ傾く空気だ」」
パトリック・ブーシュロン(歴史家 コレージュ・ド・フランス教授)
仏リベラシオン紙 インタビュー
いったい、啓蒙思想と革命の国で何が起きているのか。高校生の抗議運動や社会運動、そして10月17日にフランスの複数の都市でデモ行進の周辺で激化した略奪行為から、私たちは何を読み取るべきなのか。彼らのスローガンの一つが宣言するように、私たちはどのような意味で「近現代という時代と決別した」のだろうか?
liberation.fr/idees-et-debat…
若者の抗議運動には民主主義を再生する可能性がある一方、政府の抑圧的な対応や社会の混乱は、革命よりも権威主義への移行を後押ししかねない。
(以下は、紹介的要約)
1.10月17日の出来事は、異なる時間軸を持つ運動の交差として見るべき
10月17日の大規模動員を一括りの「騒乱」として扱わず、少なくとも三つの流れを区別する必要があると述べる。
物価高と生活不安に対する社会運動。8月初めから準備され、記事によれば80万人が街頭に出た。黄色いベスト運動と生活の脆弱さへの不安、正義への要求を共有しながらも、その単純な再現ではない。
高校生・学生の運動。海外県マヨットから始まり、パリ近郊、さらにパリへと広がった。教育や生活の機会が居住地域によって左右されることへの異議と、地域・階層を越えた連帯が中心にある。
暴動や略奪として現れた怒りと絶望。これらは、都市政策の長期的な後退や社会的放置という別の歴史を持っている。
特に評価すべきは、若者が社会全体に「政治的な喜び」を取り戻したことだ。ここでいう喜びとは、単なる高揚感ではなく、自分たちには社会を変える力がある、という行動可能性の拡大を意味している。
2.政府の対応は、対話よりも軽視と警察的抑圧に傾いている
ブシュロンによれば、創造的で活力ある若者の運動に対し、政府が示したのは政治的な軽視と警察の強硬対応だった。
教育相が高校生・学生と初めて面会したのは10月26日で、要求について話し合うためではなく、遅く不十分な決定を伝えるためだった。未成年者8,000人の身柄拘束、2016年以降の治安維持方針は暴力的であると同時に効果も乏しい。
問題の根には、国家が教育・都市政策・公共サービスを通じて応答する能力を失い、治安強化の言葉に依存していることがある。
3.「革命前夜」ではなく「権威主義前夜」
タイトルの発言は、左派への警告。
ブシュロンは、暴動が常に人々を解放するわけではないと強調している。革命へ向かう状況では解放的な役割を果たす場合があっても、現在のフランスでは、混乱や法治の衰弱が極右の国民連合(RN)を有利にする、と考えている。
人々が求めているのは、社会的公正と、それを保障する共和的秩序だ。街頭の暴力がその期待を傷つければ、極右は強く叫ばなくても「秩序を回復する勢力」として支持を得る。これが,「革命前夜ではなく、権威主義前夜」の意味。
左派指導者が明確な声を上げられない状況も嘆かわしい。ただし、1968年などの前例を手本にすればよいとも考えていない。歴史的類推に頼りすぎると、新しい状況を古い枠組みで理解し、判断が遅れるからだ。
4.マクロン時代の最大の損失は「政治的な明瞭さ」
彼は現在を、行き先の定まらない「間(あいだ)の時」と表現する。政治家は失敗を避けることに執着し、何を目指し、何に対抗するのかを明確に示せなくなっている。
その混乱の中心にマクロンがいる。極右を阻止するという理由で二度選ばれた大統領が、結果として極右への道を開いている。
ここで危険なのは、破局が一度の劇的な事件として訪れるとは限らないことだ。「このまま進むしかない」という諦めが積み重なり、最悪の事態が徐々に受け入れられていく。若者の運動は、その諦めに対し、未来はまだ決まっていないと示す行動といえる。
5.若者の「近現代の終わり」という標語には、二つの意味がある
高校生運動の標語について、ブシュロンは二通りの解釈を提示。
悲観的に読めば、若者は政治的・環境的なカタストロフをもたらした制度や生活様式を継承したくない、と宣言している。自由民主主義を中心とする「近現代」という時代そのものが限界に達した、という解釈になる。
一方、希望を見いだす解釈もありうる。若者は共和主義の約束を放棄するのではなく、その履行を求めている。恵まれた高校生が「自分たちの特権は、すべての人の権利になるべきだ」と訴えるのは、教育による解放と平等という、1789年以来の理念を実現せよという要求だ。
その意味で、要求が現実的で穏当であること自体が、現状への根本的な批判になっている。グレタ・トゥーンベリに象徴されるように、子どもが大人に「真剣に責任を果たしてほしい」と迫る世代関係の逆転が起きている。
6.世界の若者は、デジタル技術と歴史意識を行動の力にしている
記事は、インド、セルビア、イタリア、フランスの若者の運動を取り上げている。ブシュロンは、それらを「SNSによって孤立した世代」という見方への反証と捉える。
ONE PIECEのミームなどの共通文化は、連帯の合図として機能し、若者たちによる新テクノロジーの技術的な習熟は監視や統制をかわす手段にもなる。共通するのは、不公正、公共サービスの劣化、閉ざされた将来、そして若者を侮辱する政治エリートへの反発だ。
ブシュロンが若者に見いだす歴史意識とは、年表や過去の知識ではない。現在の社会は当然の結果ではなく、別の形にもなり得たし、これから変えることもできるという歴史の理解だ。
さらに、2007~2009年生まれの世代が十代で経験したコロナ禍を重視すべきだ。人々は隔離され、同時期に閉じ込めを経験した。その共有体験の政治的意味を、私たちの社会は十分に受け止めてこなかった。
7.市民社会には民主主義の活力があるが、制度政治につながらない
ブシュロンは、政党政治の外側では民主的な活動が非常に盛んだと評価する。ボランティア、市民団体、地域の取り組みには、創造性と連帯が存在している。
気候や終末期医療をめぐる市民会議も、専門家ではない人々が討議を通じて集合的な知を生み出せることを示した。しかし、その成果が政策に反映されないことが失望を生んでいる。
黄色いベスト運動の際に集められた要求についても、市民の声を集めながら聞き届けない政治の象徴となった。批判は、参加の機会がないことだけでなく、参加しても結果につながらないことに向けられている。
組織された市民社会から新しい政治勢力が現れない背景には、劣化した第五共和政の制度のもとで、国政に携わること自体が人を消耗させ、善意の担い手を遠ざけている。
8.財政危機の解決には、富の集中と相続の問題に切り込む必要がある
経済面では、政府は自ら財政上の選択肢を狭めたと批判。マクロンが掲げた「不労所得に依存する社会」との決別は実現せず、富裕層への資産集中が進んだ。
公的債務の増大と同時に民間資産も大きく増えたことを挙げ、債務問題を国全体の富の不足だけで説明できないと論じる。1789年、1920年、1945年の経験を参照し、大きな債務危機には富の再分配と税制の抜本的変更が伴ってきたと述べる。
提案するのは、国民投票による正統性を持たせた連帯税だ。これは財源確保だけでなく、負担の不公平によって傷ついた社会契約を修復する政治的手段でもある。
相続問題も重要だ。2025~2040年に9兆ユーロが相続されるという推計を紹介し、対策を取らなければ出生によって地位が固定される「旧体制」へ近づく、と警告。左派がこの問題をもっと強く争点化すべきだと主張する。
9.言葉の劣化が、人種差別と暴力への道を開く
暴動・移民・犯罪を安易に結びつける政治家やメディアの言説にも、強い懸念を示す。
公共の言葉の粗雑化は単なる表現の問題ではない。複雑な現実を単純な敵味方に還元し、特定の人々を危険な存在として語ることが、憎悪を解き放つ準備になる。パリ西郊外の自治体トラップでの人種差別的殺人もその例だ。
文化政策についても、魅力的な国家物語を競うことより、文化、創作、知性、情報への投資を共和国の基礎として守ることを重視すべき。極右が権力を握った場合には、威嚇・廃止・検閲が進むと警告。
10.歴史の役割は、冷静さと多様性を通じて自由の可能性を開くこと
最後に、ブシュロンは歴史家の姿勢として「冷静で、多様で、過剰なほど自由であること」を改めて支持する。
冷静さとは、人々の想像力を煽って危機を増幅させないこと。多様性とは、自分に似た人々だけで議論しないこと。市民会議や古代アテネの経験を参照し、集合的知性を生む鍵は人数だけでなく、参加者の違いにあると述べる。
社会科学が暴力や対立を理解しようとすることを、それらの正当化と同一視してはならないと強調する。他者を理解する営みは、自分自身の自由を広げることにつながるのだ。
権威主義への移行を必然として受け入れず、若者の行動、市民の討議、再分配、多様な他者との関係の中に、別の未来をつくる力を見いだそうとするインタビュー記事。
(要約では、随所のヴィヴィッドな表現が拾えないのですが、たいへん深い記事、わが国の状況にも様々な点で共通している)
•私保険 ⇒ 「社会保険」
(社会の人々が自発的に助け合う仕組み)
•公保険 ⇒ 「政府保険」(政府が強制力を背景に運営する仕組み)
と明快に呼び分けることは、言葉の欺瞞をはぎ取り、制度の実態をクリアにするという意味で、ハイエクが目指した言葉の精緻化そのもの
share.google/aimode/nqC1C7q4…
例えば「民法典」というものが、何もないところに人が「えいや」と決めて出来上がったものかというと異なっていて、ローマ法学に於いても弁論の中から共通して認められ(合意され)てきた主張や抗弁を集めて体系化したり、現代のフランス法は共通する慣習を再発見し集成するプロセスに始まる。
法学の詰まらないところとして、「法学は詰まるところ人が勝手に決めたものと権力の総体であるため」といった大意の話が流れてきたが、これに関して、部分的には首肯でき全体として首肯できない。即ち、「法律学」や法解釈学の一部については確かにそうなのであるが、「法学」とするとこの限りでない。
かく述べるのも、法律学に関しては、起草者意思なり立法者意思なり、あるいは現代の判例上の理解なりを考えるという「人の決めたもの」の文言の解釈の幅を一意にし、起草者や立法者の瑕疵を補うための「技術(Technik)」としての側面は否めない(このような論争自体、何も今日新しいものではなく、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、キルヒマンやヴェーバーをして論じられてきた大変、歴史的乃至論争的課題である)。
しかし、例えば「民法典」というものが、何もないところに人が「えいや」と決めて出来上がったものかというと異なっていて、ローマ法学に於いても弁論の中から共通して認められ(合意され)てきた主張や抗弁を集めて体系化したり、現代のフランス法は共通する慣習(droit commun coutumier)を再発見し集成するプロセスに始まる。勿論、これらも「人間が発したもの」を集めたには過ぎないのだけれども、「誰かが意図して決めた」というより、既にある「ホモサピエンスという社会を構築する生き物が形成する、そのホモサピエンス社会に於いて一定の合意形成を為される場合の研究」という、実に生物学的な観察手法を取り出したものに行き着く(これが人間を対象とするがために、社会学なり法社会学といった独自の領域に辿り着く)。尤も、後にこれを法典や、コモンローのような判例法圏であれば個別の判決に叩き直すときに、「人」による修正が入るのだが、それでも全くの「無」から人が勝手に決めたものとは言い難い。即ち、人の生態観察の結果推認された法則(Law)に対して、「人」が法典や判例の段階で修正(Act)を加えることができるにすぎない; 本来コモンロー圏で、法をLaw、立法をActと呼ぶ本意を、筆者はこの点に求める)。面白いことに、この法(Law)にあたる部分は、地理的気候的条件によって変動することもあるのであるから、大変「人間という生き物の生態学」的な部分さえ存する(例えば、イングランドとシンガポールに於ける人的保証の拘束力の違い)。
無論、修正(Act)の段階で、「人が勝手に決めたもの」は混入するので、その部分は「人が勝手に決めたもの」だから自然科学とは大きく異なる点であるが、筆者は、畢竟、この法則、法、Lawの部分とは何かを突き詰めつつ、Actの部分を検討することこそ法学(筆者の専門であると民法学)であると心得ている(この点、Lawの部分を突き詰める過程が理学的なのに対して、Actを踏まえてLawを再検討する意味では、専ら工学的であろう)。
筆者は、社会科を、ホモサピエンスという生き物が、言葉を発し、文字を書き、書を残し、或いはその書を残すための技術を身につけてしまい、人類史なるものを共有してしまったがために、他の生物と特異ならしめられ独立した科学の一分野となっているにすぎないと捉え、研究している。
実は、筆者も法学者の身でこそあるが、「法学は詰まらない」と言われたとき、「人が勝手に決めたもの」に対する学問の部分については、恥ずかしながら同意してしまうのが正直なところである。しかし、「人が勝手に決めたもの」だけが「法学」なのかと云われると、このように否定せざるを得ない。尚、末筆ではあるが、あくまでもこれは論文ではないので、筆者個人が「法学を面白いと思う理由」程度に捉えて戴ければと思う。





