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天武・持統天皇合葬陵(檜隈大内陵、野口王墓古墳)
壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇と、その皇后で次に即位し、天皇としてはじめで火葬された持統天皇が合葬されている御陵。
現在の墳丘は現在、東西径約58m、南北径45m、高さ約9mの五段築成の八角墳の形状をなしています。
天武天皇の諡号は「天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)」、諱は「大海人(おおあま)皇子」。
持統天皇の諡号は「大倭根子天之廣野日女尊(おおやまとねこあまのひろのひめのみこと)」と「高天原廣野姫天皇」の2つ、諱は「鸕野讚良(うののさらら)」。
天武・持統天皇合葬陵は、江戸時代の末には五条野丸山古墳だと思われていましたが、明治十三年(1880)に京都の高山寺で田中教忠氏が「阿不幾乃山陵記」を発見した(田中教忠、「阿不幾乃山陵記考證」『考古界』五巻六号)。
そして驚くべき事に、この翌年、明治政府は天武・持統天皇合葬陵を丸山古墳から野口王古墳へと指定替えを行い、治定は今日に至っています。
天武・持統天皇合葬陵についての記載は下記の通りで「阿不幾乃山陵記」のおかげで天皇陵としては詳細に知ることが出来ます。
「延喜式諸陵寮」
桧隈大内陵<飛鳥浄御原宮御天武天皇。在大和国高市郡。兆域東西五町。南北四町。陵戸五烟。>
同大内陵<藤原宮御宇持統天皇。合葬桧前大内陵。陵戸更不重充。>
▽天武紀朱鳥元年九月 九日 天皇の病、遂に差(い)えずして、正宮(おほみや)に崩 (かむあがりま)しぬ。
「持統紀(『日本書紀』)」
元年十月廿二日 ・・・始めて大内陵を築く。
二年十一月十一日 直広肆(ぢきくわうし)当摩真人智徳。皇祖等(すめみおやたち) の騰極(ひつぎ)の次第(ついで)を誄奉る。礼(いや)なり。古には日嗣と云す。畢 (をは)りて大内陵に葬りまつる。
「文武天皇紀(『続日本紀』)」
大宝二年十二月廿二日 太上(持統)天皇崩ず。
大宝二年十二月十七日 従四位上当麻真人智徳、諸王・諸臣を率ゐて誄したてまつる。謚して大倭根子天之広野日女尊と曰ふ。是の日飛鳥岡に火葬す。
大宝二年十二月廿六日 大内山陵に合葬す。
「阿不幾乃山陵記(高山寺文書)」
※訳文です!驚くほど克明・詳細な記述です!
石室内の全長は約7.5メートル。玄室に当たる「内陣」と羨道に当たる「外陣」に分かれ、外陣は約3メートル四方、高さ約2.1メートル。内陣は長さ約4.5メートル、幅約3メートル。内陣とがの境には、飾り金具の付いた金銅製の扉が観音開きで取り付けられていた。内陣は、すべての壁、床、天井に朱が塗られていた。
天武天皇の柩は、長さ約2.1メートル、幅・高さともに約75.8センチメートル。布を漆で幾重にも張り固める脱乾漆の技法で作られた乾漆棺。別名、夾紵棺。天皇クラスの柩である。聖徳太子墓の太子と妃の膳郎女の棺もこれと同様のものと伝わる。「入角」は、「八角」の間違いとみられ、「牙上」は格狭間の古称の牙象のことで厚さ約1.5センチメートルの金銅製の透し彫り棺台の側面の長辺に各4個、短辺に各2個の合計12個取り付けられていた事がわかる。
遺骨から身長を割り出すと2メートル近い数値になるが、少なくとも175センチメートル以上はあったことは間違いないという。
紅の死装束をまとった大柄の赤黒い遺骨は天武天皇のイメージに重なる。
金や珠で飾られた枕は大陸からの品のように豪華で、とても言葉では表現できない、形は鼓のようだと記されている。
その後に、持統天皇の骨臓器の記述が続く。一斗は入る大きさの金銅製の桶が一つあり、台の上に据えられ、礼盤のような形をしている。鎖が少しと格狭間が一つあったが、桶が動かないように台に結んだものか。桶の蓋と身を繋いだものかは判然としない。このほかに御念珠が一連あり、三重の琥珀の念珠を銅の糸で連ねた品だった。
『明月記』には持統天皇の遺骨は銀の筥(はこ)に入れられており、この時の盗掘で持ち出されて道ばたに捨てられたと記されている。金銅製の容器はそれを入れた外容器で、二重になった骨臓器が内陣に安置されていたと推測される。
参考
・『天皇陵の謎 』、矢澤高太郎、文春新書、2011
・『天皇陵古墳への招待』、森浩一、筑摩書房、2011
・「檜隈大内陵の石室構造」『橿原考古学研究所論集 第五』、吉川弘文館、1979
・『持統天皇』、瀧浪貞子、中央公論新社、2019
〜航空写真と石室内の再現は、飛鳥資料館のパネルより〜
#天武天皇 #持統天皇 #野口王墓古墳 #天武・持統天皇陵 #阿不幾乃山陵記
特別史跡 本薬師寺跡
藤原宮跡の南西約1キロの辺りに位置しています。
もともとは、細部をのぞけば平城京薬師寺と瓜二つの伽整であったようですが、現在では礎石と東西の塔跡を残すのみとなっています。
『日本書紀』によると天武九(680)年に天武天皇が皇后(持統天皇)の病平癒を祈念して発願された寺です。
天皇崩御後の持統二年(688)(『日本書紀』)に行われた仏事には少なくとも堂塔の一部が完成していたと考えられています。
その後、持統天皇十一年(697)(『日本書紀』)に開眼会が開かれ、翌年の文武二年(698)年(『統日本紀』)に伽藍はほぼ完成したと伝えられています。
寺域は藤原京右京八条三坊を占めていましたが、平城京遷都に伴い養老二年(718)に平城京右京六条二坊に移転されたことが『薬師寺長和縁起』によって知ることができます。
『中右記』によると、寺が移転した後も平安時代中頃まで伽藍の存在が確認でき、この頃には平城京の薬師寺に対して本薬師寺と呼び、区別するようになったようです。
伽藍は、中心に金堂、その前面、左右対称に東・西塔を配置し、南に中門を開きその両翼から回廊を巡らせ金堂北側の講堂に取り付くいわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれるものです。
発掘調査は1976年の寺城西南隅での調査に始まり、金堂・東塔・西塔・中門・回廊の一部で行われ、貴重な成果が得られました。
金堂・東塔・西塔は、基壇等の規模が平城京薬師寺とほぼ同じである一方、中門・回廊は、規模・構造ともに異なることが明らかになりました。
伽藍の造営は金堂に始まり、続いて東塔・中門・回廊、更に遅れて西塔の順に行われたようです。
中門北側の調査で、寺の造成土の下層から西三坊々間路を検出し、最初に藤原京の条坊道路が設置され、それを埋め立てて造営したことが確認されました。
従来は堂塔の位置関係や礎石配置が平城京薬師寺と一致することから移建説が有力視されていましたが、発掘調査により一部の堂塔は移建されないまま旧地に残っていた可能性があることが判明しました。
写真の展示パネルは、奈良文化財研究所藤原宮跡資料室のものです。
#元薬師寺 #藤原宮跡 #天武天皇 #持統天皇
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜アフター藤ノ木古墳 〜
石室の構造、須恵器の型式、位置関係などから押坂彦人大兄皇子の成相墓と考えられている牧野古墳。
仏教の台頭により、時代は古墳から寺院建築へと移ろっていきます!
そして馬匹生産は、ヤマトでの群集墳における馬具の減少傾向とは反対に、上毛野では鉄製馬具の副葬が増加していきます!
牧野古墳は6世紀末の約50mの大型円墳で、埋葬施設は全長17.1mの横穴式石室。
玄室内に刳抜式の石棺を安置していましたが、盗掘により破壊されています。
金銅装の馬具は、本来は藤ノ木古墳と同じように、石棺と奥壁の間に設置されたと考えられますご、2セットの副葬が想定されており、Aセットは東側、Bセットは西側に置かれたようです!
なお、Aセットの鏡板と杏葉は金銅装の地板に金銅装の文様透し板をのせる構造になっているが、Bセットの杏葉は鉄製地板に文様を浮き彫り表現にした金銅板をのせる構造になっています。
ちなみに、牧野古墳が成相墓と考えられるのは『延喜式』の陵墓一覧の大和国広瀬郡の6世紀〜7世紀の陵墓が成相墓しか見られないこと。そして、大量に見つかった須恵器の型式が藤ノ木古墳のものに近いものの、有蓋高杯の高さがやや低くなり、口縁の立ち上がりが短くなり内傾しており、また脚部の透かしが三方のものに混じって二方のものが混じっているなど新しい傾向を示している事から、藤ノ木古墳の須恵器のTK43型式より新しいTK203型式と考えられること。『日本書紀』に崩年の記載の無い彦人大兄皇子の子の舒明の出生年から類推して、七世紀初頭までは在世したこと。これらの事とTK43の型式が6世紀の第4四半期とした想定と矛盾しない事などから総合的に彦人大兄皇子の墓と考えられているようです。
これをさらに検証する資料として、宇治市の隼上り窯の須恵器編年、飛鳥の豊浦寺の高句麗系の軒丸瓦(講堂など)の使用時期などからTK203型式の須恵器は7世紀の第1四半期と考えられていて、それとも矛盾しない事があげられています。
※参考
『日本の古代遺跡を掘る5 藤ノ木古墳ー斑鳩に花開く東アジアの古代』、1995、前園実知雄・白石太一郎、読売新聞社
#藤ノ木古墳 #牧野古墳 #橿原考古学研究所附属博物館
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 藤ノ木古墳と同時期の馬具/三里古墳 〜
三里古墳は、奈良県平群町に位置する6世紀後半の全長35mの前方後円墳。
埋葬施設は全長約12mの横穴式石室で奥壁には石棚を持ちます。
同じく平群町に位置する長屋王墓にも近く、徒歩で行けるほどの距離にあります!
玄室内に組み合わせ式石棺と木棺が置かれ、金銅装の馬具は石棺と右側壁の間から出土しました。
馬具は2セット確認されており、
金色のAセットは、鐘形鏡板・杏葉と頂部花形飾りのない雲珠・辻金具のセット。
Bセット(銀色)は、心葉形十字文透し鏡
板と頂部花形飾り付の雲珠と辻金具のセットが展示されます。
#三里古墳 #平群町 #馬具 #橿原考古学研究所
個人的には、巫女埴輪が好みかも🤔
レーザー彫刻機が来た日から、はにコットへの申込期限がタイトだったため、古墳-1グランプリ用に急遽こちらのコルクコースターを作ってみました。
#古墳フェス2026 #はにコット
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 藤ノ木古墳と同時期の馬具/三里古墳 〜
三里古墳は、奈良県平群町に位置する6世紀後半の全長35mの前方後円墳。
埋葬施設は全長約12mの横穴式石室で奥壁には石棚を持ちます。
同じく平群町に位置する長屋王墓にも近く、徒歩で行けるほどの距離にあります!
玄室内に組み合わせ式石棺と木棺が置かれ、金銅装の馬具は石棺と右側壁の間から出土しました。
馬具は2セット確認されており、
金色のAセットは、鐘形鏡板・杏葉と頂部花形飾りのない雲珠・辻金具のセット。
Bセット(銀色)は、心葉形十字文透し鏡
板と頂部花形飾り付の雲珠と辻金具のセットが展示されます。
#三里古墳 #平群町 #馬具 #橿原考古学研究所
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 藤ノ木古墳と同時期の馬具/桂川王塚古墳 〜
藤ノ木古墳と同時期の古墳として、九州の古墳からは福岡県嘉穂郡桂川町に所在する全長86mの前方後円墳である桂川王塚古墳の馬具が展示されています。
埋葬施設は全長6.8mの横穴式石室。前室と後室の複室構造で、後室奥壁上部に石棚があり、その下に石屋形・石棺を設置。
6世紀中葉の装飾古墳であり、石室内全面
には壁画が描かれ、特に前室玄門の袖石には左右ともに騎馬像が描く。
人物は小さく描かれており、馬装表現がみられます。
馬具(少なくとも3セット。今回の展示ではf字形鏡板のセットが展示されています)は石屋形の左手前に置かれていたようです。
#桂川王塚古墳 #福岡県 #馬具 #橿原考古学研究所
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 藤ノ木古墳と同時期の馬具/桂川王塚古墳 〜
藤ノ木古墳と同時期の古墳として、九州の古墳からは福岡県嘉穂郡桂川町に所在する全長86mの前方後円墳である桂川王塚古墳の馬具が展示されています。
埋葬施設は全長6.8mの横穴式石室。前室と後室の複室構造で、後室奥壁上部に石棚があり、その下に石屋形・石棺を設置。
6世紀中葉の装飾古墳であり、石室内全面
には壁画が描かれ、特に前室玄門の袖石には左右ともに騎馬像が描く。
人物は小さく描かれており、馬装表現がみられます。
馬具(少なくとも3セット。今回の展示ではf字形鏡板のセットが展示されています)は石屋形の左手前に置かれていたようです。
#桂川王塚古墳 #福岡県 #馬具 #橿原考古学研究所
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 藤ノ木古墳と同時期の馬具/綿貫観音山古墳 〜
前回の修理事業成果展1『きらびやかに送る』の際にも展示がなされていましたが、今回も6世紀後半の上毛野地域を代表する古墳である綿貫観音山古墳の馬具の展示がありました!
同時期の藤ノ木古墳と並んで東アジア屈指の馬具と言われるだけあって、非常に美しい馬具です🙌
関東でも、馬匹生産同様、この時期には馬具の生産も軌道に乗っていた証左と言えますね!
この馬具ひとつとっても、ビッグイベントってくらいの馬具ですね!
綿貫観音山古墳は、全長97mの前方後円墳で、埋葬施設は全長 12.6mの横穴式石室。
藤ノ木古墳とは違い、副葬品を故意に破壊することはされていませんでした。
馬具は4セット確認されており、今回は藤ノ木古墳B・Cセット(非新羅系馬具)との関係性からA・Cセットの一部が展示されています!
いずれも「非新羅系」で、列島産である可能性が高いもの。
特に、環状鏡板付轡は、国内唯一の金銅製のものと国内最大のもの。
#綿貫観音山古墳 #藤ノ木古墳 #ウマと馬具 #橿原考古学研究所
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 藤ノ木古墳と同時期の馬具/綿貫観音山古墳 〜
前回の修理事業成果展1『きらびやかに送る』の際にも展示がなされていましたが、今回も6世紀後半の上毛野地域を代表する古墳である綿貫観音山古墳の馬具の展示がありました!
同時期の藤ノ木古墳と並んで東アジア屈指の馬具と言われるだけあって、非常に美しい馬具です🙌
関東でも、馬匹生産同様、この時期には馬具の生産も軌道に乗っていた証左と言えますね!
この馬具ひとつとっても、ビッグイベントってくらいの馬具ですね!
綿貫観音山古墳は、全長97mの前方後円墳で、埋葬施設は全長 12.6mの横穴式石室。
藤ノ木古墳とは違い、副葬品を故意に破壊することはされていませんでした。
馬具は4セット確認されており、今回は藤ノ木古墳B・Cセット(非新羅系馬具)との関係性からA・Cセットの一部が展示されています!
いずれも「非新羅系」で、列島産である可能性が高いもの。
特に、環状鏡板付轡は、国内唯一の金銅製のものと国内最大のもの。
#綿貫観音山古墳 #藤ノ木古墳 #ウマと馬具 #橿原考古学研究所
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 馬具A 〜
こちらは今回の特別展ではなく常設展で展示されています。
しかし、今回の特別展で展示の馬具B・Cと比較して見てみることで、改めてその素晴らしさを実感出来ました🙌
こちらの馬具Aは他のB・Cと違い、新羅系とされていますが、未だ大陸からは類例の出土品は無いそうです。
新羅系と非新羅系の分別は鏡板と面繋を連結する鉤金具の形態などをもとに千賀久氏によって大別して理解されているが、鏡板のかたちは違っても多くの鏡板轡が非新羅系の特徴を持っている。その特徴に大きな影響を与えていたのは大伽耶と見られているそう。
馬具Aの系統については発見当初から様々な見解が発表され、南朝・百済系説では鞍金具の優美で繊細な表現が、北朝・新羅系説では馬具の形態論が、その根拠とされていました。
白石先生は、朝鮮半島三国時代の馬具資料の物量は新羅に偏っていて、その為、どうしても具体的な馬具の形態の比較からは新羅との類縁関係が目立ちやすいものの、心葉形鏡板、棘葉形の杏葉、轡の二条線づくりの引手、前輪に2個、鞖(しおで)を持つ鞍、尻繋につける多量の歩揺付飾り金具などは、いずれも明らかに新羅系馬具に見られる顕著な特徴とされています。
※参考
『日本の古代遺跡を掘る5 藤ノ木古墳ー斑鳩に花開く東アジアの古代』、1995、前園実知雄・白石太一郎、読売新聞社
『令和8年度 秋季特別展図録 ウマと馬具 ー国宝・藤ノ木古墳出土品修理事業成果展2ー』、橿原考古学研究所附属博物館、2026
#藤ノ木古墳 #馬具A #橿原考古学研究所
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 馬具A 〜
こちらは今回の特別展ではなく常設展で展示されています。
しかし、今回の特別展で展示の馬具B・Cと比較して見てみることで、改めてその素晴らしさを実感出来ました🙌
こちらの馬具Aは他のB・Cと違い、新羅系とされていますが、未だ大陸からは類例の出土品は無いそうです。
新羅系と非新羅系の分別は鏡板と面繋を連結する鉤金具の形態などをもとに千賀久氏によって大別して理解されているが、鏡板のかたちは違っても多くの鏡板轡が非新羅系の特徴を持っている。その特徴に大きな影響を与えていたのは大伽耶と見られているそう。
馬具Aの系統については発見当初から様々な見解が発表され、南朝・百済系説では鞍金具の優美で繊細な表現が、北朝・新羅系説では馬具の形態論が、その根拠とされていました。
白石先生は、朝鮮半島三国時代の馬具資料の物量は新羅に偏っていて、その為、どうしても具体的な馬具の形態の比較からは新羅との類縁関係が目立ちやすいものの、心葉形鏡板、棘葉形の杏葉、轡の二条線づくりの引手、前輪に2個、鞖(しおで)を持つ鞍、尻繋につける多量の歩揺付飾り金具などは、いずれも明らかに新羅系馬具に見られる顕著な特徴とされています。
※参考
『日本の古代遺跡を掘る5 藤ノ木古墳ー斑鳩に花開く東アジアの古代』、1995、前園実知雄・白石太一郎、読売新聞社
『令和8年度 秋季特別展図録 ウマと馬具 ー国宝・藤ノ木古墳出土品修理事業成果展2ー』、橿原考古学研究所附属博物館、2026
#藤ノ木古墳 #馬具A #橿原考古学研究所
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 馬具C 〜
藤ノ木古墳の石棺と奥壁との間から出土した馬具A〜Cのうち、Cのみは出土状況がよく分かっていません。
アマルガム法によって鍍金される事は馬具Bと同じで金の成分も含まれますが、より銀色になる事を意識して作製された馬具と見られています。
こちらも馬具Bと同じく非新羅系のものですが、所有が北側だったのか南側だったのかは定かではありませんが、馬具A・Bと比べると杏葉などは見られず、ややランクが下がるのは明らかと思います。
こちらの馬具も通常の常設展示では目にすることが出来ない貴重なものです🙌
#藤ノ木古墳 #馬具 #橿原考古学研究所 #馬具C
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 馬具C 〜
藤ノ木古墳の石棺と奥壁との間から出土した馬具A〜Cのうち、Cのみは出土状況がよく分かっていません。
アマルガム法によって鍍金される事は馬具Bと同じで金の成分も含まれますが、より銀色になる事を意識して作製された馬具と見られています。
こちらも馬具Bと同じく非新羅系のものですが、所有が北側だったのか南側だったのかは定かではありませんが、馬具A・Bと比べると杏葉などは見られず、ややランクが下がるのは明らかと思います。
こちらの馬具も通常の常設展示では目にすることが出来ない貴重なものです🙌
#藤ノ木古墳 #馬具 #橿原考古学研究所 #馬具C
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 馬具B 〜
普段は展示されない藤ノ木古墳出土の馬具B。
今回の特別展のメイン展示であり、青柳学芸課長さんによると、今後また10数年は展示されないのでは…との事でした🤔
必見です!
藤ノ木古墳のメインの馬具であるAは新羅系であり、舶来されたとの見方が強い。
それに対して馬具BとCは非新羅系と特徴が異なり、国内で製作された。
それには562年に新羅に併合された大伽耶からの遺民の存在も想定される。
藤ノ木古墳の6世紀の頃、韓半島では馬具の副葬が見られなくなるが、日本国内では最盛期を迎える。
そうした時期で、今回展示の馬具Bは最高水準のものであり、生前、北側の被葬者が実用していたものと見られる。
修理事業で輝きを取り戻した馬具Bからは、当時の金色の輝きをはっきりと見て取れます。
水銀アマルガム法によって仕上げられた馬具Bは、当時、鮮やかな金色で輝き、馬上の北側被葬者に威厳を与えていたはずです。
それにしても、今回の展示では他の古墳出土の杏葉も多数展示されていて、それによって、この馬具Bの鐘形杏葉の大きさ・華麗さが際立っています。
特別展での藤ノ木古墳馬具BとC。そして綿貫観音山古墳や三里古墳、牧野古墳、甲山古墳、桂川王塚古墳……。
常設展では馬具Aも展示中です‼️
#藤ノ木古墳 #馬具B #北側被葬者
⚫︎ 橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
〜 馬具B 〜
普段は展示されない藤ノ木古墳出土の馬具B。
今回の特別展のメイン展示であり、青柳学芸課長さんによると、今後また10数年は展示されないのでは…との事でした🤔
必見です!
藤ノ木古墳のメインの馬具であるAは新羅系であり、舶来されたとの見方が強い。
それに対して馬具BとCは非新羅系と特徴が異なり、国内で製作された。
それには562年に新羅に併合された大伽耶からの遺民の存在も想定される。
藤ノ木古墳の6世紀の頃、韓半島では馬具の副葬が見られなくなるが、日本国内では最盛期を迎える。
そうした時期で、今回展示の馬具Bは最高水準のものであり、生前、北側の被葬者が実用していたものと見られる。
修理事業で輝きを取り戻した馬具Bからは、当時の金色の輝きをはっきりと見て取れます。
水銀アマルガム法によって仕上げられた馬具Bは、当時、鮮やかな金色で輝き、馬上の北側被葬者に威厳を与えていたはずです。
それにしても、今回の展示では他の古墳出土の杏葉も多数展示されていて、それによって、この馬具Bの鐘形杏葉の大きさ・華麗さが際立っています。
特別展での藤ノ木古墳馬具BとC。そして綿貫観音山古墳や三里古墳、牧野古墳、甲山古墳、桂川王塚古墳……。
常設展では馬具Aも展示中です‼️
#藤ノ木古墳 #馬具B #北側被葬者
橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
ずっと見に行きたかったのですが、ようやく見ることができました🙌
研究所の青柳氏が講演されるとの事でしたので、シンポジウム『ウマ・牧・馬具、藤ノ木古墳の頃』のタイミングに合わせて!
シンポジウムで青柳氏は、馬具Bこそ主たる被葬者である北側の人物が生前に実用していたものだろうと仰っておられました!
有名な馬具Aは儀礼用で新羅的な様相を示していて、どちらかの被葬者が生前に入手していたもの。
非新羅系のBとCのうち、残りのCはどちらのものなのか?
比較してみると、Aの馬具の金色が非常に際立っています!
そしてBの杏葉が他に展示されている他古墳のものと比較して異様に大きな事!
馬具Cはかなり小さく見えますが、パーツが失われているのでしょうか?
補足ですが、講演会の際に、2011年の講演会の資料『後期・終末期古墳とその被葬者像』を頂きました。
丁度、藤ノ木古墳の被葬者についても触れられていて…
講演会に出席されていた片山氏の記事では、もちろん2人とも男性。『南側人骨についての計測値の表中、中足骨最大値の値が漏れ落ちているのだが、この値が実は非常に大きく、北側人骨よりも更に大きい。』
→『男性骨である蓋然性が更に高くなる』との事。
その重要な部分をなぜ漏らしてしまったのか…
一方、先日お亡くなりになられた白石先生。
こちらは人類学の片山氏の調査から2人とも男性として穴穂部皇子と宅部皇子説。
しかし、玉城一枝氏の装身具(手玉足玉)から南側被葬者が女性である可能性もあるという主張を受けて、新聞記事(朝日新聞 平成21年9月14日)では「今までは人類学者の先生の意見を信じるしかなかったわけだが、考古学者の側から新しい材料が出てきたのは歓迎すべきこと」と評価する、とありました。
やはり現時点では男性とするよりは、不明とする方が相応しいのでは?と思いますが…
参考:第30回奈良県橿原考古学研究所公開講演会資料『後期・終末期古墳とその被葬者像』、2011、橿原考古学研究所、由良大和古代文化研究協会
#藤ノ木古墳 #橿原考古学研究所 #馬具
橿原考古学研究所附属博物館さんの秋季特別展『ウマと馬具』
ずっと見に行きたかったのですが、ようやく見ることができました🙌
研究所の青柳氏が講演されるとの事でしたので、シンポジウム『ウマ・牧・馬具、藤ノ木古墳の頃』のタイミングに合わせて!
シンポジウムで青柳氏は、馬具Bこそ主たる被葬者である北側の人物が生前に実用していたものだろうと仰っておられました!
有名な馬具Aは儀礼用で新羅的な様相を示していて、どちらかの被葬者が生前に入手していたもの。
非新羅系のBとCのうち、残りのCはどちらのものなのか?
比較してみると、Aの馬具の金色が非常に際立っています!
そしてBの杏葉が他に展示されている他古墳のものと比較して異様に大きな事!
馬具Cはかなり小さく見えますが、パーツが失われているのでしょうか?
補足ですが、講演会の際に、2011年の講演会の資料『後期・終末期古墳とその被葬者像』を頂きました。
丁度、藤ノ木古墳の被葬者についても触れられていて…
講演会に出席されていた片山氏の記事では、もちろん2人とも男性。『南側人骨についての計測値の表中、中足骨最大値の値が漏れ落ちているのだが、この値が実は非常に大きく、北側人骨よりも更に大きい。』
→『男性骨である蓋然性が更に高くなる』との事。
その重要な部分をなぜ漏らしてしまったのか…
一方、先日お亡くなりになられた白石先生。
こちらは人類学の片山氏の調査から2人とも男性として穴穂部皇子と宅部皇子説。
しかし、玉城一枝氏の装身具(手玉足玉)から南側被葬者が女性である可能性もあるという主張を受けて、新聞記事(朝日新聞 平成21年9月14日)では「今までは人類学者の先生の意見を信じるしかなかったわけだが、考古学者の側から新しい材料が出てきたのは歓迎すべきこと」と評価する、とありました。
やはり現時点では男性とするよりは、不明とする方が相応しいのでは?と思いますが…
参考:第30回奈良県橿原考古学研究所公開講演会資料『後期・終末期古墳とその被葬者像』、2011、橿原考古学研究所、由良大和古代文化研究協会
#藤ノ木古墳 #橿原考古学研究所 #馬具
藤ノ木古墳被葬者の性別と副葬品の所有者について
藤ノ木古墳の被葬者像については、北側・南側の被葬者ともに男性との見方が一般的で、長らく穴穂部皇子と宅部皇子説が有力ですが…
その根拠の最たるものが人類学的な人骨調査による性別の判定ですが、玉木一枝氏の「藤ノ木古墳の南側被葬者男性説は成り立つのか
ー片山一道氏の批判に答えるー」の補論である入倉徳裕氏「藤ノ木古墳南側被葬者の性判別に関する統計学上の問題」は非常に興味深い内容ですね!
例えば…
第一中足骨最大長(説明変数)をXmmとすると、推定される身長の標準誤差は、{残差の不偏分散×〔1+1÷標本数+(x-説明変数の平均)2乗÷説明変数の偏差平方和]}の平方根である。藤ノ木一号人骨(南側人骨)の第一中足骨最大長=65mm、コルディロら2009の標本数=90人、第一中足最大長の平均=68mm、同偏差平方和=1218.41から、推定身長の標準誤差は {3058.1[1+1÷90+(65-68)2乗÷1218.41]}の平方根=55.8mmとなる。そして、推定身長
の95%信頼区間は、回帰方程式の推定値±標準誤差×t(自由度=88、有意水準=0.05)で、t分布表より、この場合のt=1.99であるから、166.6±11.1cm(155.5〜177.7mm)となる。
このように、コルディロら2009の回帰方程式においても、一号人骨の身長は150cm台後半の可能性も排除できず、女性ではあり得ないほどの高身長とはいえないことになる。
など。
著名な研究者が人類学的な調査の結果として当然のように「男性の可能性が高い」と書いておられるので、そうなのかな?と思ってしまいますが、数式で示されると、何で男性と言い切ってしまったのかと🤔
埋葬状況を見ても、南側の被葬者が北側の被葬者に対して頭の位置がかなり低い位置にあり、また左右の耳環に加えて、おそらく筒状の頭飾りを身につけていて、他にも足玉も装着していた。
また、よく目にする被葬者2人の復元図ですが、遺骨の発見状況と比較すると、明らかに北側被葬者の足首の位置が高い位置になっていて、身長差を縮めて認識してしまう錯覚に陥ってしまいます。
副葬品も北側の被葬者の方が圧倒的に多く、南側は少ない。大刀にしても、鴨稲荷山古墳と比較すると分かりますが、高貴な被葬者の左右に副葬されていて、南側にあるからと言って、南側被葬者の物とは言い切れないかと。
如何に暗殺を前提にしたとは言え、古墳時代の埋葬は夫婦であっても出身地に埋葬する事が多いとされる中、主たる被葬者が崇峻天皇であれ穴穂部皇子であれ、宅部皇子を斑鳩の領域に「はいどうぞ」と受け入れたとは考えにくいのでは?と思います。
しかも、暗殺が斑鳩で起こったのでもないのにですよ!
というわけで、まだ行けていませんが、
令和8年度秋季特別展 ウマと馬具 ー国宝・藤ノ木古墳出土品修理事業成果展2ー (奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
非常に楽しみです🙌
#藤ノ木古墳 #被葬者 #玉城一枝 #片山一道 #入倉徳裕
奈良市はぐくみセンターで開催の村瀬陸氏の「富雄丸山古墳からシルクロードを語る」を拝聴しました!
いつもなかなか抽選で選ばれませんでしたが、ようやく参加出来て満足です🙌
色々とエピソードも興味深く…
講演会には公のものとプライベートのものがあるらしく、今回は公のものだそう。
蛇行剣について柄頭の反対側の突起物について石突きではなく、柄頭の機能があったと仰るのがプライベートの講演会なのかな?と。
今回、驚いたのが、富雄丸山古墳の虺龍文鏡の発見があって、奈良市・サマルカンド市提携特別展の開催に繋がったと思っていたのが、
時系列では、先に2022年姉妹都市締結があって、特別展の企画があり(この時点での目玉はアフラシアブ壁画)、その後、村瀬氏が倒られて観光戦略課に異動。
そこで村瀬氏が展示品の一覧を目にして、まだ未発表だった虺龍文鏡が富雄丸山古墳からも出ている事を指摘。特別展のもう一つの目玉が虺龍文鏡になる、という流れだった事。
非常に楽しい講演会で、「奇跡の壁画とシルクロードの至宝展」がますます楽しみです🙌
#村瀬陸 #サマルカンド #奈良市 #奇跡の壁画とシルクロードの至宝 #アフラシアブ #虺龍文鏡 #蛇行剣
藤ノ木古墳被葬者の性別と副葬品の所有者について
藤ノ木古墳の被葬者像については、北側・南側の被葬者ともに男性との見方が一般的で、長らく穴穂部皇子と宅部皇子説が有力ですが…
その根拠の最たるものが人類学的な人骨調査による性別の判定ですが、玉木一枝氏の「藤ノ木古墳の南側被葬者男性説は成り立つのか
ー片山一道氏の批判に答えるー」の補論である入倉徳裕氏「藤ノ木古墳南側被葬者の性判別に関する統計学上の問題」は非常に興味深い内容ですね!
例えば…
第一中足骨最大長(説明変数)をXmmとすると、推定される身長の標準誤差は、{残差の不偏分散×〔1+1÷標本数+(x-説明変数の平均)2乗÷説明変数の偏差平方和]}の平方根である。藤ノ木一号人骨(南側人骨)の第一中足骨最大長=65mm、コルディロら2009の標本数=90人、第一中足最大長の平均=68mm、同偏差平方和=1218.41から、推定身長の標準誤差は {3058.1[1+1÷90+(65-68)2乗÷1218.41]}の平方根=55.8mmとなる。そして、推定身長
の95%信頼区間は、回帰方程式の推定値±標準誤差×t(自由度=88、有意水準=0.05)で、t分布表より、この場合のt=1.99であるから、166.6±11.1cm(155.5〜177.7mm)となる。
このように、コルディロら2009の回帰方程式においても、一号人骨の身長は150cm台後半の可能性も排除できず、女性ではあり得ないほどの高身長とはいえないことになる。
など。
著名な研究者が人類学的な調査の結果として当然のように「男性の可能性が高い」と書いておられるので、そうなのかな?と思ってしまいますが、数式で示されると、何で男性と言い切ってしまったのかと🤔
埋葬状況を見ても、南側の被葬者が北側の被葬者に対して頭の位置がかなり低い位置にあり、また左右の耳環に加えて、おそらく筒状の頭飾りを身につけていて、他にも足玉も装着していた。
また、よく目にする被葬者2人の復元図ですが、遺骨の発見状況と比較すると、明らかに北側被葬者の足首の位置が高い位置になっていて、身長差を縮めて認識してしまう錯覚に陥ってしまいます。
副葬品も北側の被葬者の方が圧倒的に多く、南側は少ない。大刀にしても、鴨稲荷山古墳と比較すると分かりますが、高貴な被葬者の左右に副葬されていて、南側にあるからと言って、南側被葬者の物とは言い切れないかと。
如何に暗殺を前提にしたとは言え、古墳時代の埋葬は夫婦であっても出身地に埋葬する事が多いとされる中、主たる被葬者が崇峻天皇であれ穴穂部皇子であれ、宅部皇子を斑鳩の領域に「はいどうぞ」と受け入れたとは考えにくいのでは?と思います。
しかも、暗殺が斑鳩で起こったのでもないのにですよ!
というわけで、まだ行けていませんが、
令和8年度秋季特別展 ウマと馬具 ー国宝・藤ノ木古墳出土品修理事業成果展2ー (奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
非常に楽しみです🙌
#藤ノ木古墳 #被葬者 #玉城一枝 #片山一道 #入倉徳裕
藤ノ木古墳出土の国宝馬具と被葬者の性別
橿原考古学研究所附属博物館さんで本日より開催される特別展『ウマと馬具
-国宝・藤ノ木古墳出土品修理事業成果展2-』
。どんな展示になるか非常に楽しみなところです!
ところで、藤ノ木古墳の2人の被葬者については、人類学的調査によって2人とも男性で、北側:穴穂部皇子・南側:宅部皇子説が有力ですが…
他にも、法隆寺に伝わる崇峻天皇説などもあります。
そして副葬品から考察して、南側の被葬者が女性という説もまたあります!
松本清張他 1996 『日本史七つの謎』講談社文庫では、佐原真氏が、藤ノ木古墳の馬具についての対談で、下記のように語っておられます。
佐原 鞍の後ろの板の内側に把手が付いてまして、把手を掴んで横乗りするんです。これは韓国慶州の皇南大塚の北墳からも出ていて、そこでは「夫人帯」と書いた付札も出ていますから、間違いなさそうです。
……(中略)…
佐原 そのお答えの前に、実は、藤ノ木では足くびを玉で飾っています。これもまた女の埴輪に共通するので、猪熊さんは考古学だけで考えると、女説はすてがたいというのです。しかし人骨が九〇パーセント男だとなると、それをイエスといわざるをえないのです。
詳細は下記のサイトにて見る事が出来ます。
sites.google.com/view/fujino…
また、前回の藤ノ木古墳出土品修理事業成果展『きらびやかに送る』で展示されていた金銅製筒形品は、南側の被葬者の頭部に取り付けられていた可能性があり、北側の被葬者の冠に対比されています。
これは、修理工程での新たな発見で、中央帯金に見られた繊維痕跡が動物毛と確認できたことでした。
筒形品の繊維痕跡の存在は既に知られていたことでしたが、これまでは「有機質遺物の痕跡」や「木目痕のような跡」とされ実態が不明でした。
今回の修理に伴う観察によって、同一径の繊維がほぼ同一方向に分布しているととが観察され、現時点では、獣毛か人毛(毛髪)かは明らかではないが、ほぼ同一径の繊維であるととから人毛(毛髪)の可能性を考えておきたい(一般的に獣毛は保護毛および下毛の太さの異なる毛が存在する)と説明されていました。
頭に取り付ける筒形品、埴輪などでは一般的に女性の埴輪に見られますよね🙌
そして森浩一氏や佐原真氏も言っておられましたが、足玉手玉の組み合わせは女性に多く見られます。
同志社大学の玉城一枝氏は、こうした藤ノ木古墳の副葬品の研究と、人骨の調査について不十分な点を述べておられて、南側の被葬者の性別が女性の可能性もある事を述べておられます。
一方、人骨の調査を行った人類学の片山一道氏は、人類学的な調査の結果から、絶対に男性と主張しておられます。
南側の被葬者の性別によっては、被葬者像も変わってきますので、今後の研究が楽しみですね☺️
※参考
玉城一枝「藤ノ木古墳の南側被葬者男性説は成り立つのか ―片山一道氏の批判に答える―」同志社大学考古学シリーズⅪ『森浩一先生に学ぶ―森浩一先生追悼論集―』2015年1月30日
片山一道2013「藤ノ木古墳人骨再考 ―南側被葬者は男性である―」奈良県立橿原考古学研究所編『橿原考古学研究所論集 第16』八木書店
#藤ノ木古墳 #馬具 #足玉 #手玉 #筒形 #玉城一枝 #片山一道 #森浩一 #佐原真
二条城 〜豊臣から徳川へ〜
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、まもない慶長六年(1601)、西日本の諸大名に京都二条城の築城を命じます。
そして慶長八年二月(旧暦)、伏見城で将軍宣下を受けます。
さらに家康は続いて3月に、完成した二条城に入城。
その足で、3月25日(旧暦)二条城から御所へ盛大な行列を組んで参内、後陽成天皇に拝謁(将軍拝賀の式)しました。
3月27日には勅使や公家・重臣を招いて祝賀の儀が行われ、世の人々の認識は秀吉に続く天下人は徳川家康であるというふうになっていきます。
しかしながら、大坂城には幼い秀頼が未だ大きな勢力として健在で、家康の亡き後は、また豊臣に権力が戻るという認識もまたありました。
そして慶長十一年(1611)、家康は豊臣秀頼へ上洛を要請。
秀頼は臣下であるはずの徳川家康がいる二条城で面会をするために京都に向かいます。
この時、秀頼にとって家康は舅であり、かつ官職は家康の方が上であり、謙譲の礼を取るしかありませんでした。
しかし、この二条城面会でのやり取りは、結果的に、天下に徳川公儀が豊臣公儀に優越することを知らしめる事になりました。
#二条城 #徳川家康 #豊臣秀頼
和歌山城 〜対豊臣の備え④〜
天正十三年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建。
周囲から眺める天守は、いかにも和歌山市を睥睨すると言った感じで一段高い位置に聳えており、それを取り囲む荘厳な石垣と相まって威圧感を放っています!
この時、藤堂高虎らが普請奉行を勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といえます。
秀長は大和郡山を居城としたため、桑山重晴が城代を勤め、秀長家の断絶後は桑山氏が城主となりました。
状況が変わるのは慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、戦後、浅野幸長が37万6千石の領主となり、今度は徳川方が豊臣家に対しての包囲網の一角のお城となりました。
お城は大規模な改築が施されました。
連立式天守閣が建てられ、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備しました。
豊臣家滅亡後の元和五年(1619)、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石を拝領入国。
その後は江戸時代を通じて紀州徳川藩の居城となりました。
※お城の模型は和歌山市立博物館のものです!
#和歌山城 #和歌山市 #徳川 #豊臣秀長
姫路城 〜対豊臣の備え⑤〜
豊臣秀吉の出世城として知られる姫路城。
しかし、関ヶ原以後で状況が変わります。
徳川家は戦いに勝利したものの、まだ西国には豊臣恩顧の大名が多く存在していました。薩摩の島津、肥後の加藤、広島の福島、筑前の黒田……大坂城に豊臣秀頼がいる限り、徳川家の天下はあり得ませんでした。
家康は西国から大阪への入り口に当たる姫路城に、関ヶ原の功により播磨52万石を得た大名であり家康の娘・督姫を妻に持つ娘婿の池田輝政を配置します。
輝政はさらに次男・三男にも周辺の領地を与えられ、池田一族の総石高は実質100万石近くに達し「西国将軍」「姫路宰相」と呼ばれました。
その池田輝政が1601年から9年をかけて作り上げたのが、現在の姫路城です。
#姫路城 #徳川家康 #池田輝政
和歌山城 〜対豊臣の備え④〜
天正十三年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建。
周囲から眺める天守は、いかにも和歌山市を睥睨すると言った感じで一段高い位置に聳えており、それを取り囲む荘厳な石垣と相まって威圧感を放っています!
この時、藤堂高虎らが普請奉行を勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といえます。
秀長は大和郡山を居城としたため、桑山重晴が城代を勤め、秀長家の断絶後は桑山氏が城主となりました。
状況が変わるのは慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、戦後、浅野幸長が37万6千石の領主となり、今度は徳川方が豊臣家に対しての包囲網の一角のお城となりました。
お城は大規模な改築が施されました。
連立式天守閣が建てられ、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備しました。
豊臣家滅亡後の元和五年(1619)、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石を拝領入国。
その後は江戸時代を通じて紀州徳川藩の居城となりました。
※お城の模型は和歌山市立博物館のものです!
#和歌山城 #和歌山市 #徳川 #豊臣秀長
和歌山城 〜対豊臣の備え④〜
天正十三年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建。
周囲から眺める天守は、いかにも和歌山市を睥睨すると言った感じで一段高い位置に聳えており、それを取り囲む荘厳な石垣と相まって威圧感を放っています!
この時、藤堂高虎らが普請奉行を勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といえます。
秀長は大和郡山を居城としたため、桑山重晴が城代を勤め、秀長家の断絶後は桑山氏が城主となりました。
状況が変わるのは慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、戦後、浅野幸長が37万6千石の領主となり、今度は徳川方が豊臣家に対しての包囲網の一角のお城となりました。
お城は大規模な改築が施されました。
連立式天守閣が建てられ、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備しました。
豊臣家滅亡後の元和五年(1619)、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石を拝領入国。
その後は江戸時代を通じて紀州徳川藩の居城となりました。
※お城の模型は和歌山市立博物館のものです!
#和歌山城 #和歌山市 #徳川 #豊臣秀長
膳所城 〜対豊臣の備え③
関ヶ原の戦いの翌年の慶長六年(1601年)、徳川家康は東海道を制し、湖上の船運を抑え大坂の豊臣方に備える目的で膳所崎に膳所城を築城(現在の膳所城公園)。
築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方につけかえたといいます。
当初お城は、本丸と二の丸、三の丸が分かれていましたが、寛文二年(1662年)の大地震で大きな被害を受け、それまで分かれていた本丸と二の丸を合体させ、東西が最大80間(一間約1.8m)南北最大約55間の規模を持つ本丸として再生されました。
現在、本丸跡は膳所城跡公園となっていて、それまでの三の丸が二の丸となり、現在は浄水場となっています。
江戸時代、東海道を旅する人たちにとって、湖水に写る天守閣はひときわ美しかったらしく、多くの絵画に膳所城は描きのこされています。
現在の膳所城跡公園北側に位置していた天守閣の規模は最上層が三間四方、その下が四間四方、さらにその下が五間✕六間、最下層が七X八間だったそうです。
城主(膳所藩主)一族は転々と変わっており、初代が戸田一西、以後、戸田氏鉄、本多康俊、本多俊次、菅沼定芳、石川忠総、石川憲之と続き、慶安四年(1651年)本多俊次が再度の任について以降は、本多家が代々城主を歴任しました。
#膳所城 #大津市 #東海道 #豊臣 #徳川家康 #藤堂高虎
⚫︎坂本城 〜光秀が築いた天下の名城〜
大津城から さらに北に上がると、かつて湖西にあって比叡山に睨みを効かせた坂本城跡があります!
元亀二年(1571)山門焼き討ちのあと明智光秀は、湖岸に豪壮な水城、坂本城を築城、初代城主となりました。
天下の名城とされる「安土城」に次ぐ程の名だたる城と流布され、天下に知らぬものはないであろうと言われていたそうですが、現在では坂本城に関する資料はほぼ残っていません。
光秀は坂本城を本拠地として、以後、約10年間活躍しました。
光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、連歌、詩歌などに造詣の深い文化人でした。
われならで誰かは植えむ 一つ松心して吹け
志賀の浦風
自信に満ちた歌ですね!
ちなみに坂本城本丸跡発掘調査時に出土した赤瓦は落城時に焼けたものとされていましたが、発掘資料の再精査等々により、破断した瓦の断面も赤いこと、ならびに赤瓦の出土量等をふまえ、城の一部に使用されていた可能性もあります。
出土した赤瓦は、大津市歴史博物館に展示されています!
#坂本城 #明智光秀 #安土城
⚫︎大津城
膳所城と言えば…北西に位置した大津城は見逃せませんね!
膳所城は公園として残されていますが、大津城は石碑として残されています。
大津市歴史博物館では、膳所城や大津城についての展示を見る事が出来ますよo(^-^)o
天正一四年(1586)頃、豊臣秀吉は琵琶湖西部の拠点城を坂本から大津に移し、京都・大坂へとつなぐ政治・経済の重要拠点としました。
大津城は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍の戦略拠点として重視され、城主京極高次は粘り強く籠城戦を展開、立花宗茂らを釘付けに東軍を勝利に導いた大きな要因となりました。
その後、城は膳所に移され(天守閣は対岸の彦根城へ)、かつての城下町は商業都市に変貌します。
大津城の中堀や外堀は、物資荷揚げ用の舟入として利用され、城跡は町地として整備されます。
元禄時代(17世紀後半)には、町数100カ町、人口1万8千人を超える、活気あふれる都市に成長したとされます。
#大津城 #膳所城 #彦根城 #京極高次 #立花宗茂 #徳川家康 #関ヶ原
⚫︎大津城
膳所城と言えば…北西に位置した大津城は見逃せませんね!
膳所城は公園として残されていますが、大津城は石碑として残されています。
大津市歴史博物館では、膳所城や大津城についての展示を見る事が出来ますよo(^-^)o
天正一四年(1586)頃、豊臣秀吉は琵琶湖西部の拠点城を坂本から大津に移し、京都・大坂へとつなぐ政治・経済の重要拠点としました。
大津城は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍の戦略拠点として重視され、城主京極高次は粘り強く籠城戦を展開、立花宗茂らを釘付けに東軍を勝利に導いた大きな要因となりました。
その後、城は膳所に移され(天守閣は対岸の彦根城へ)、かつての城下町は商業都市に変貌します。
大津城の中堀や外堀は、物資荷揚げ用の舟入として利用され、城跡は町地として整備されます。
元禄時代(17世紀後半)には、町数100カ町、人口1万8千人を超える、活気あふれる都市に成長したとされます。
#大津城 #膳所城 #彦根城 #京極高次 #立花宗茂 #徳川家康 #関ヶ原
膳所城 〜対豊臣の備え③
関ヶ原の戦いの翌年の慶長六年(1601年)、徳川家康は東海道を制し、湖上の船運を抑え大坂の豊臣方に備える目的で膳所崎に膳所城を築城(現在の膳所城公園)。
築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方につけかえたといいます。
当初お城は、本丸と二の丸、三の丸が分かれていましたが、寛文二年(1662年)の大地震で大きな被害を受け、それまで分かれていた本丸と二の丸を合体させ、東西が最大80間(一間約1.8m)南北最大約55間の規模を持つ本丸として再生されました。
現在、本丸跡は膳所城跡公園となっていて、それまでの三の丸が二の丸となり、現在は浄水場となっています。
江戸時代、東海道を旅する人たちにとって、湖水に写る天守閣はひときわ美しかったらしく、多くの絵画に膳所城は描きのこされています。
現在の膳所城跡公園北側に位置していた天守閣の規模は最上層が三間四方、その下が四間四方、さらにその下が五間✕六間、最下層が七X八間だったそうです。
城主(膳所藩主)一族は転々と変わっており、初代が戸田一西、以後、戸田氏鉄、本多康俊、本多俊次、菅沼定芳、石川忠総、石川憲之と続き、慶安四年(1651年)本多俊次が再度の任について以降は、本多家が代々城主を歴任しました。
#膳所城 #大津市 #東海道 #豊臣 #徳川家康 #藤堂高虎
膳所城 〜対豊臣の備え③
関ヶ原の戦いの翌年の慶長六年(1601年)、徳川家康は東海道を制し、湖上の船運を抑え大坂の豊臣方に備える目的で膳所崎に膳所城を築城(現在の膳所城公園)。
築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方につけかえたといいます。
当初お城は、本丸と二の丸、三の丸が分かれていましたが、寛文二年(1662年)の大地震で大きな被害を受け、それまで分かれていた本丸と二の丸を合体させ、東西が最大80間(一間約1.8m)南北最大約55間の規模を持つ本丸として再生されました。
現在、本丸跡は膳所城跡公園となっていて、それまでの三の丸が二の丸となり、現在は浄水場となっています。
江戸時代、東海道を旅する人たちにとって、湖水に写る天守閣はひときわ美しかったらしく、多くの絵画に膳所城は描きのこされています。
現在の膳所城跡公園北側に位置していた天守閣の規模は最上層が三間四方、その下が四間四方、さらにその下が五間✕六間、最下層が七X八間だったそうです。
城主(膳所藩主)一族は転々と変わっており、初代が戸田一西、以後、戸田氏鉄、本多康俊、本多俊次、菅沼定芳、石川忠総、石川憲之と続き、慶安四年(1651年)本多俊次が再度の任について以降は、本多家が代々城主を歴任しました。
#膳所城 #大津市 #東海道 #豊臣 #徳川家康 #藤堂高虎
彦根城 〜対豊臣の備え②〜
慶長五年(1600年) 、関ヶ原の戦いが勃発。
徳川配下の井伊直政は抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長六年(1601年)上野の国高崎城から佐和山城に移った。
その後、直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死、慶長八年(1603年)、その子直継が父直政の遺志を受け、彦根城の築城に着手した。
徳川家康は、特に奉行を差し向け七ヶ国12大名にも応援させ、元和八年(1622年)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に20年の年月を要した。
周囲約4km(1里)、高さ約50メートルの彦根山に築城した平山城である。
約2キロ離れた佐和山城の石垣を再利用していたことが分かっており、徳川家側が豊臣家との戦いに備えて築城を急いだためと考えられています。
他にも天守は大津城(『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあります)、その他、安土城、長浜城など工期を急ぐため、近隣の城郭の部材を大量に移築したお城として知られます。
当時の対豊臣対策の緊張感が伝わるお城ですね!
#彦根城 #豊臣 #徳川 #井伊直政
⚫︎神戸港
須磨から西に位置する神戸港。
遊覧船では、川崎重工さんや三菱重工さんのドックに停泊している潜水艦などを目にする事が出来ます⛴️
それから、前澤友作氏が所有する全長約114.2メートルの超大型スーパーヨット(メガヨット)「NAUSICAÄ(ナウシカ)」が今月15日まで停泊しているそうですよ🙌
#神戸港 #潜水艦 #御座船

























































































