弘法大師
『般若心経秘鍵』
「翳障(えいしょう)の軽重(きょうじゅう)覚悟の遅速のごとくに至っては、機根不同にして性欲(しょうよく)即ち異なり」
人には、煩悩の軽い人もいれば、重い人もいます。
物事をすぐに理解できる人もいれば、時間をかけて理解する人もいます。
それは、その人の性格や置かれた環境、心の状態がそれぞれ違うからです。
例えば、同じ失敗をしても、
「次は頑張ろう」と切り替えられる人もいれば、
いつまでも自分を責めてしまう人もいます。
同じ言葉をかけても、
届き方は人それぞれです。
だからこそ、相手に合った言葉や導き方が必要なのです。
仏さまの教えも同じ。
一人ひとりの違いに応じて、救いへの道を説かれるのです。
弘法大師『般若心経秘鍵』
「かつて医王の薬を訪わずんば、何の時にか大日の光を見ん」
お大師さまのこのお言葉で、私が特に大切にしたいのは、「薬を求めること」と「光を受けること」のつながりです。
仏さまの教えは、単なる知識ではありません。
迷いの中にいる私たちが教えに出会い、学び、実践することで、少しずつ心が照らされていくのです。
暗闇にいる人に「よく見なさい」と言っても、なかなか見えません。
まず、明かりが必要なのです。
同じように、迷いの中にいる人に「正しく考えなさい」「もっと頑張りなさい」と言うだけでは、難しいこともあります。
だからこそ、まず仏さまの教えという薬を求める。
その教えに触れ、学び、実践する中で、自分自身や世界の見え方が変わっていく。
光によって新しい何かが生まれるのではない。
もともと具わっているものに、気づいていくのです。
あなたはもともと、素晴らしいものを持っているのです。
弘法大師『般若心経秘鍵』
「かつて医王の薬を訪わずんば、何の時にか大日の光を見ん」
暗い部屋にいると、目の前に何があるのか、よくわかりません。
しかし、明かりを灯せば、それまで見えなかったものが見えてきます。
大切なのは、明かりによって新しい何かが生まれたのではないということ。
もともとそこにあったものが、光によって見えるようになったのです。
お大師さまのおっしゃる「大日の光」も、こう考えてみることができるでしょう。
仏さまの智慧に照らされることで、迷いの中では見えなかった自分自身や、物事の本当の姿に気づいていく。
それが、もともと具え持つ仏身を開顕するという教えを理解する、一つの手がかりになるのです。
『般若心経秘鍵』には、
「それ仏法遥かにあらず。心中にして即ち近し」
「かつて医王の薬を訪わずんば、何れの時にか大日の光を見ん」
というお言葉があります。
どちらも、お大師さまの教えを考えるうえで、大切なお言葉です。
ところが、これらの文章について、唐の僧侶・明曠(みょうこう)の『般若心経疏』から引用されたのではないか、という説が明治時代に提起されました。
その後、明曠の著作とされる文献そのものの成立時期や真偽についても疑問が呈され、この問題は研究者の間で議論されてきました。
この点については、高木訷元先生の『空海 還源への歩み』や、松長有慶先生の『空海 般若心経の秘密を読み解く』などでも、さまざまな根拠を挙げながら、大師ご自身のお言葉として捉える立場が論じられています。
もちろん、仏教の教えは、誰が先に述べたかということだけで、その価値が決まるものではありません。
私たちが大切にしたいのは、お大師さまのお言葉から、今を生きる智慧をいただくことです。
千二百年の時を超えて伝えられてきた教えが、誰かの心を少しでも軽くし、明日を生きる力になる。
そんな願いを込めて、これからもお大師さまのお言葉を紹介してまいりたいと思います。
2033年にまつわるお話の続きです。
2033年は太陰太陽暦(旧暦)において冬至と、朔(新月=旧暦の1日)が重なる日、すなわち朔旦冬至(さくたんとうじ)の年に当たります。
太陽の力が最も弱まる冬至と、月の満ち欠けがリセットされる新月(朔)が同時に訪れるため、「暦が再び生まれ変わる日」として極めて縁起が良いとされてきました。
伊勢遷宮の年と重なるのもご縁です…
と某宮司さんが仰いました。
その話に基づいて調べていたところ、一日ずれていることが分かりました。
そこで、次の朔旦冬至はいつになるのか調べてみると、なんと26年後の2052年12月21日。
うーん……。
その頃、私はもう生きていないかもしれませんね。笑
でも、ふと思いました。
26年後の朔旦冬至を見ることはできないかもしれませんが、今日という日は、間違いなく私たちの手元にあります。
弘法大師のお言葉を借りれば、
「仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し」
仏の教えは、遠くにあるものではなく、私たちの心の中にあるということです。
仏教が説く「無常」という言葉には、何となく寂しい響きがありますが、決して悲観的な教えではありません。
すべてのものは移り変わっていく。だからこそ、今という時間が尊いということです。
明日が必ず来るという保証は、誰にもありません。
だからこそ、
今日を大切に生きる。
今日出会った人を大切にする。
今日できることを、今日できる範囲で行う。
それで十分なのだと思います。
26年後を心配するより、まずは今日一日を大切に。
そんなことを考えさせられた、朔旦冬至のお話でした。
『般若心経秘鍵』のお話から
ちょっと一休み…
昨日は、某宮司さんから伺った「33」と「88」にまつわるお話をさせていただきました。
それにまつわるお話ですが、
皆さんは、2033年という年が、少し特別な年になることをご存じでしょうか。
実は、この年には宗教や文化にまつわる、興味深い出来事がいくつも重なります。
① 伊勢神宮では、第63回式年遷宮が予定されています。20年ごとに社殿を新しくし、伝統を受け継いでいく大切な節目です。
② 京都の清水寺では、33年に一度の御本尊・十一面千手観音菩薩の御開帳が予定されています。観音さまの三十三身にも通じる数字ですね。
③ キリスト教では、イエス・キリストの受難・死・復活による救いから2000年という大きな節目を迎えます。
④ さらに、2033年から2034年にかけては「旧暦2033年問題」と呼ばれる、暦の専門家を悩ませる珍しい問題もあります。
神道、仏教、キリスト教、そして暦の世界。
それぞれ異なる歴史や背景を持ちながら、2033年という同じ年に、これほど興味深い節目が集まるのです。
何か特別なことが起こるという意味ではありませんが、こうして眺めてみると、何とも不思議な巡り合わせですね。
2033年まであと6年と少し。先の話ですが、何かの目標にするのもいいのではないかと思いました。
『般若心経秘鍵』のお話から
ちょっと一休み…
某神社の宮司さんからお聞きしたのですが、
「33」と「88」いう数字にまつわる面白いお話です。
日本の三重県は「三が重なる」(33)島根県は「八が重なる八重」(88)と捉え、東の三重(伊勢神宮)から昇った太陽が、都の上を通過して西の出雲(出雲大社)へ沈んでいく。
そこに33と88という数字を重ね合わせ、太陽の巡りや再生、永続を象徴するというお話でした。
地名の歴史的な由来とは別の、数字を通した興味深い解釈ですね。
そして、もう一つ驚いたのが、スペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリアのお話です。
受難のファサードには、4行4列、16個の数字が刻まれた魔方陣があります。
縦・横・斜めなど、4つの数字を足すと、どれも33になるように配置されています。
これは、キリストの伝統的な没年齢とされる33歳を象徴しているそうです。
宗教や文化が違っても、数字に特別な意味を込める人々の心は、どこか共通しているのかもしれません。
数字の世界も、なかなか奥深いものですね。
弘法大師『般若心経秘鍵』
「哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子(じょうめんのし)、苦しいかな、痛いかな、狂酔の人(きょうすいのにん)。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」
ああ、何と哀れなことよ。哀れなことよ。真実の世界を知らないで、長い迷いの眠りをむさぼっている人よ。ああ、何と苦しいことよ。痛ましいことよ。迷いの世界に酔いしれている人よ。迷いの世界にひどく酔いしれている人は、酔ってない人を嘲笑い、迷いの眠りにひどく落ちている人は、さとりを得た人を嘲り笑うありさまである。
長く受け継がれてきた伝統には、守ってきた人々の誇りと、言葉では語り尽くせない思いがあります。
一方で、時代とともに見直すべきこともあるでしょう。
大切なのは、互いに相手を責めることではなく、相手の思いに耳を傾け、より良い道を探すこと。
そして、忘れてはならないのが
「何のために行っているのか」
という原点です。
目的を大切にするあまり、いつしか手段が目的に変わってはいないか。
伝統を守るとは、形をそのまま残すことだけなのでしょうか。
お大師さまのお言葉を前に、私自身も考えさせられます。
弘法大師は、私たちは仏の世界と無関係な存在ではないと説かれます。
では、仏の世界とつながっているのに、なぜ私たちは、そのことに気づけないのでしょうか。
それは、迷いや煩悩によって、物事をありのままに見ることが難しくなるからです。
私たちは誰もが、仏の心につながる尊い可能性を持って生まれてきました。
しかし、成長するなかで、さまざまな経験や人の言葉に触れ、知らず知らずのうちに思い込みや執着を抱くようになります。
その結果、自分自身や周囲の世界を、ありのままに見ることができなくなってしまうことがあります。
こうした心の働きが、煩悩であり、迷いなのです。
まるで、澄みきった景色に霧がかかるように、本来の世界が見えにくくなってしまうのです。
仏の世界とのつながりに気づくこと。
その道の入り口にあるのが「発心」です。
そして、自分の迷いを見つめ直し、物事をありのままに知るための「智慧」へと、歩みを進めていくのです。
『般若心経秘鍵』の
「発心すれば即ち到る」とは、
発心した瞬間に、あらゆる迷いが消え、修行が不要になるという意味ではありません。
むしろ、悟りを求める心を起こしたとき、そこにすでに悟りへ向かう道が開かれている。
そう受け取ることができるのではないでしょうか。
例えば、今まで自分のことだけを考えていた人が、ある日、誰かの苦しみを自分のことのように感じ、「この人のために何かしたい」と心を起こしたとします。
その瞬間に、その人の人格が完成するわけではありません。
しかし、その人の生き方は、すでに変わり始めています。
発心は、悟りへの道を歩み始めるだけでなく、その道の意味に気づくことでもあると思うのです。
これは「即ち」の意味を考えるうえでの解釈であり、『般若心経秘鍵』の前後の文脈や、弘法大師の即身成仏思想も踏まえて、丁寧に読む必要はありますが…
また、
仏教では、衆生が本来、仏となる可能性を備えているという考え方があります。
しかし、仏となる可能性を備えていることと、その可能性に気づき、悟りを求めて歩み始めることとは、区別して考える必要があります。
種には、木になる可能性があります。
けれども、種が芽を出し、育っていくには、水や光、土などの縁が必要です。
同じように、誰もが仏となる可能性を持っているとしても、それだけで「永劫の時間をさまよえば、必ず悟りに至る」と言い切れるかどうかは、別の問題です。
誰もが仏となる可能性を持っているとしても、その可能性に気づき、歩み始めることに、大きな意味があるのではないかと思うのです。
弘法大師『般若心経秘鍵』
「発心すれば即ち到る」
悟りは、どこか遠くから飛んでくるものではありません。
何か特別なものを、新しく手に入れることだけでもありません。
私たちは、もともと仏の世界と無関係な存在ではないのです。
そのことに気づき、仏の教えに従って歩み始めようと心を起こす。
それが「発心」なのではないでしょうか。
発心したその瞬間に、悟りへの道は、もう始まっているのです。
「発心すれば即ち到る」
発心した瞬間に修行が不要になるという意味ではなく、発心したその瞬間に、目指す仏の道と自分の歩みが結びつくと考えるのです。
では、もともと仏の世界とつながっているのに、なぜ私たちは、そのことに気づけないのでしょうか。
弘法大師『般若心経秘鍵』
「発心(ほっしん)すれば即ち到る」
これは、
「心をおこせば、一瞬で悟りが完成する」
という意味ではありません。
「発心したその瞬間に、もう道は始まっている」
そう受け止めることが大切ではないでしょうか。
これは『即身成仏義』の
「もともとあるものに気づく」
という教えにもつながります。
仏さまは、遠いところにおられるのではありません。
私たちの「今ここ」に寄り添い、私たち自身の心にも、仏へとつながる世界が開かれているのです。
そのことに気づき、歩み始める。
それが発心なのかもしれません。
発心とは、ただ仏さまの存在を信じることだけではなく、仏の教えに照らして、自分自身の生き方を見つめ始めることでもあるでしょう。
新しく仏さまを自分の中につくるのではなく、仏と無関係ではなかった自分に気づき、その道を歩み始めるることなのです。
将来が不安になったことは誰でもあると思います。
「このままで大丈夫かな」
「就職できるかな」
「将来、幸せになれるかな」
まだ起きていない、未来のことを考えて、今苦しくなってしまう…
ここでも、
禅定=まず今に戻る。
そして、
「今、本当に起きている問題は何だろう?」
と考える。
すると、「まだ起きていないこと」に苦しんでいた自分に気づくことがあるのです。
「その言い方、どういう意味?」
たった一言なのに、一日中気になってしまう。
「馬鹿にされた」
「嫌われている」
「見下されている」
と、どんどん心の中で話が膨らんでいきます。
そんなとき、
「相手が実際に言ったこと」と「自分が受け取った意味」を分けてみます。
これも『般若心経秘鍵』で言われる、禅定と正思惟。
非常に大切な智慧だと思います。
次に弘法大師は『般若心経秘鍵』で、
「それ仏法遙かに非ず。心中にして即ち近し。
真如外に非ず。身をすてて何んぞ求めん。
迷悟我に在り。則ち発心すれば即ち到る」
と説かれます。
仏法というと、
どこか遠いところにある、
特別な人だけが求めるもの。
そんなふうに思ってしまいがちです。
けれど、お大師さまは言われます。
仏法は、遠くにあるのではない。
私たちの心の中にあるのです。
悟りも、どこか遠くへ探しに行くものではありません。
迷っているのも自分。
悟りへ向かおうとするのも自分。
だからこそ、
「変わってみよう」
「もう一度、歩いてみよう」
そう心を決めたところから、
すでに悟りへの道は始まっています。
仏さまは、遠いところにおられるのではありません。
実は、
私たちの「今ここ」に、
ずっと寄り添ってくださっているのです。
「自分はダメだ」
という一つの出来事から始まった物語を、どこまでも膨らませないことです。
その物語から一歩離れて見ることです。
これこそ、『般若心経秘鍵』の冒頭に出てくる「文殊の智慧」とも繋がってくるのではないでしょうか。
禅定 → いったん立ち止まる
正思惟 → 智慧をもって見直す
戯論を絶つ → 自分で作った物語に振り回されない
というように、現代の日常へ橋を架けていくと、教義が急に「生きた言葉」になります。
そして、これは
「智慧とは、捨てること」
というお話にも繋がっていくようにも思います。
思い込みを一つ手放す。
決めつけを一つ手放す。
「こうに違いない」という物語を一つ手放す。
すると、その向こうに別の可能性が見えてくる。
これもまた「般若の智慧」なのかもしれません。
私たちは、なぜ思いどおりにならないと苦しくなるのでしょうか。
例えば、仕事で失敗したとき。
失敗そのものもつらいですが、
「失敗してはいけない」
「人から能力がないと思われたくない」
「自分だけは認められたい」
そういった思いが、さらに自分を苦しめていることがあります。
もちろん、失敗そのものの問題を解決する必要はあります。
けれども、それに加えて、自分の心が何を求め、何にとらわれているのかに気づくことができれば、少し違った受け止め方ができるかもしれませんね。
「智慧」とは、苦しみをただ避けるのではなく、苦しみを生み出す心の働きにも気づいていくことでもあるのです。
「拝む」ということ…
静かに手を合わせ、心を鎮める。
それは、ただ心を落ち着かせるためだけの行為ではありません。
仏さまと向き合い、自分の思いを見つめ、仏の智慧と慈悲に心を開いていくことでもあります。
病気平癒を願う祈祷も、祈れば必ず病気が治るというものではありません。
私は、仏さまのご加持を願いながら、病に苦しむ方が少しでも良い方向へ向かわれるよう、お手伝いをさせていただくのだと考えています。
祈りは、現実から目をそらすことではない。
現実と向き合い、そこに仏さまの慈悲をいただこうとすること。
まずは静かに手を合わせる。
その一歩もまた、大切な祈りの実践なのだと思います。
『般若心経秘鍵』の
「ただ禅那正思惟せよ」
というお言葉に戻るなら、ここで伝えたいのは、祈祷の効力を説明することではなく、手を合わせるという行為の中にも、心を鎮め、智慧に向き合う実践があるということだと思います。
そのうえで、真言密教の祈祷は、心の持ち方だけにとどまらず、仏の加持を願い、衆生の苦しみが取り除かれることを祈る実践でもあるということになると思います。
「抜苦与楽」という言葉についても、苦しみを取り除き、安らぎを与える。
そのためには、まず手を合わせる。祈る。そして、できることを一緒に考え、支えていく。
祈りを心の中だけに閉じ込めず、苦しむ人に寄り添う実践として伝えるということだと思うのです。
まずは手を合わせて祈る(拝む)ということから始まるのではないでしょうか。
たとえば、特に大きな悩みがあるわけでもないのに、何となく心が晴れない。何をするにも、いまひとつやる気が出ない。
そんな日もあります。
そんなとき、私たちは、何か楽しいことを探したり、気分転換をしたりするかもしれません。
もちろん、それも大切なことです。
けれども、ときには静かに手を合わせてみる。
今日まで生かされてきたこと。
自分を支えてくれている人がいること。
当たり前だと思っていた日常が、決して当たり前ではないこと。
そんなことに心を向けてみると、今まで見えていなかったものに気づくことがあります。
目の前の現実が変わったわけではありません。
けれども、それを受け止める自分の心が、少し変わっている。
仏様に手を合わせるということは、そうした気づきをいただくことでもあるのではないでしょうか。
現代は、何かあるとすぐに答えを求めたり、気分を変えるために次々と刺激を求めたりする時代です。
そんな時代だからこそ、
「まず、手を合わせてみませんか」
という言葉には、深い意味があるのではないでしょうか。
拝んだからといって、必ずしも目の前の現実が変わるわけではありません。しかし、拝むことによって自分の心と向き合い、物事の見方が変われば、その後の行動も変わっていくかもしれません。
手を合わせることから、心が静まり、智慧が生まれ、その智慧が生き方を変えていく。
弘法大師が仰る
「ただ禅那(ぜんな)正思惟(しょうしゆい)のみ有ってす」
が手を合わせて心を整えるということになるのだと思います。
そして、私たちにとって、その智慧へと導かれる大切な実践が「拝む」ということになると思うのです。
仏様に手を合わせ、心を静め、仏様の教えに身を委ねる。
そうして仏様の智慧に照らされながら、自分の思い込みや執着に気づき、物事を正しく見つめ直していくのです。
苦しみから抜け出す道は、外から何か特別なものを手に入れることだけにあるのではありません。
拝むことを通して仏様の境地に近づき、その智慧を自分自身の中にはたらかせていく。
弘法大師は、その道を私たちに示してくださっているのではないでしょうか。



















