@kaien

ジャンル横断エンタメライター。主にマンガ・アニメ・ゲーム・映画を題材に、読者が感じる違和感や評価の分かれ目を言葉にする記事を執筆。最近の仕事は『このマンガがすごい!2025』CLAMP特集、ITmedia「ねとらぼ」連載、マルハン東日本「ヲトナ基地」連載など。

新潟県
Joined May 2007
ここから何かすごい法則が導き出せそうな気がするが、具体的に何なのかわからない。
アニメ放送開始からカップル成立までにかかった日数
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再度、いま話題になっている『無職転生』の「問題点」と「その答え」について可能なかぎり短く!わかりやすく!ぼくの考えを書いておくね。 まず、今回の騒動の問題点というか論点は「『無職転生』の主人公が作中で性的加害を行い、なおかつその報いを受けていないこと」だと思います。 批判派はそれを問題として挙げ、擁護派はいや問題ではないと主張するわけです。 それでは、ある作品のキャラクターが作中で加害行為や犯罪行為を行うこと、さらにその報いを受けないことの何が問題なのでしょうか。 結局のところ、それはぼくたち(の大半)が「物語の主人公は善人であるべきである」、そして「悪事は作中で裁かれるべきである」という「勧善懲悪」と「因果応報」の原則をどこかで信じているからです。 いわゆる「悪役」が加害的な悪事を働いただけならだれも問題視しなかったでしょう。 無惨さまや幻影旅団が悪いことをやるのはあたりまえだから。 主人公のくせに悪いことをしてしかも報いを受けていない、というところが問題になっているわけです。 しかし、一方ではその「勧善懲悪」と「因果応報」はべつに物語や文学の絶対法則でも何でもないわけです。 べつに悪人が主人公で最後まで罰を受けることなく生き抜いてもかまわない。 そういう作品は文学史上にはいくらでもある。 ただ、『無職転生』の主人公ルーデウスは完全な悪人でもなくて、わりと善いこともする。 どこまでいっても「中途半端」な奴です。ぼくはこの「中途半端さ」が議論を呼ぶ根幹なのではないかと思うのです。 善人だったら善人、悪人だったら悪人であればわかりやすいのだけれど、そう断定できない。 その「断定できなさ」が「いや悪人だろ!」、「そうはいっても善人だよね」と意見を分ける理由になる。 で、ぼくはじっさいにはそこでそもそもそうやって「善人」と「悪人」を分けることそのものが不可能であり、また因果が正しく応報しない物語もありえると主張します。 その意味で『無職転生』はエンターテインメントとしてギリギリのところまで「非勧善懲悪」と「非因果応報」をめざしているようにも見えます。 いや、べつだんカフカみたいな不条理文学ではないので基本的かつ最終的には「正義は勝つ」わけですが、細かく見ていくとところどころそのようなぼくらの一般的な感覚では「理不尽」と感じられるポイントが見つかるわけです。 「ターニングポイント1」のフィットア領消滅事件とか、何の罪もない人たちが大量に死んでいるわけで。 でも、そういう話なんですよね。 それはすべてにおいて悪が裁かれ努力が報いられ正義が勝利する作品を求める人には不満でしょう。 それでは、そういう「理不尽」な作品はあってはいけないのか? 物語のなかとはいえ、何か悪事を犯した人間は即ち「悪人」であり、のうのうと生きていってはいけないのか? ぼくはそここそが「真の論点」だと思います。 あなたはどう思いますか? ぜんぜん短くならなかった……。おしまい。
>人間は善人と悪人に分けれます。 そうですか……。そこまで素朴に断言されると少し困りますが、伝わるかどうかわからないけれど、なるべくわかりやすくこちら側の意図を説明しましょう。 えーとですね、べつに「善と悪、被害と加害は相殺しあう」という話をしているんじゃないんです。 善は善、悪は悪。それはそう。 しかし、善行をなしたら善人、悪行を犯したら悪人、というほど人間は単純ではない、といっているのです。 倫理的に正しい行動と悪い行動というものは、それ自体ときとして判別困難ではあるにしても、あるでしょう。 ですが、倫理的に許されない行動を犯した人間であっても「ザ・悪人」という記号ではない。 ある悪辣な行動を取った人間のなかにも、真心や、優しさや、愛情や、愛された思い出や、暴力的な欲求といった複雑な人間性がありえる。 もちろん、そういった感情なり記憶があるからといってその人の罪が免責されるわけではありません。 たしかに悪は悪であり、罪は罪だからです。ただ、そういった善行や罪悪によってその人の人間性が二分されるわけではないということなんです。 「悪には悪の救世主が必要」とおっしゃっていますね。 これは『ジョジョの奇妙な冒険』第三部のンドゥールのセリフからの引用でしょう。 しかし、現実の人間は少年マンガのキャラクターのように明確に善側と悪側に分けられることはまれです。 現実世界においては大半の人間が善と悪のあいだを行き来しており、仮に生涯いっさい何の悪も成さなかったとしても、悪の誘惑に駆られることはありえるはず。 その意味でその人が「善人」として生きられたことは大きく偶然の影響を受けています。 何かひとつ違っていたらかれもまた悪を成していたかもしれない。違いますか。 そして、いまとなっては少年マンガであっても善悪に分けられない複雑な人間性を描いています。 もし『ジョジョ』を続けて読んでおられるなら、現在、『ジョジョ』第九部の主人公ジョディオ・ジョースターが麻薬の売人であることはご存知でしょう。 その意味ではかれは悪を成している。 しかし、一方でジョディオには明確に家族や仲間を思う心があります。 ジョディオは「善人」でしょうか? それとも「悪人」なのでしょうか? あなたの理屈でいうなら「悪人」であり「ヒーロー的な行動を取っていてもクズはクズ」であるはずですよね。 ですが、そういった評価によって、かれへの理解がすべて尽くされるわけではありません。 ジョディオのなかにある友情や家族愛、火のような野心に共感することと、かれの悪行を肯定することもまたべつのことです。 あなた自身、「クズ人間の中にヒーロー性があったっていい」と語っていますね。その点はぼくも同意します。 ただ、だからこそ、そのヒーロー性や人間としての弱さ、哀しさに感情移入した読者をひとくくりに「クズ人間」と断言できる根拠がわかりません。 ある人物のある感情を理解することは、その人物のすべての行為を支持することではないのですから。 世界の文学史上には(そしてアニメやマンガにも)シンプルに善悪で割り切れない人間性を描いた名作がたくさんあります。 もちろん、マクベスは悪人、ジャン・バルジャンは悪人、ラスコーリニコフは悪人、ルーデウスも悪人。それでおしまいにすることもできなくはない。 ただ、じっさいにはマクベスやラスコーリニコフが犯した罪を認めながら、かれらの欲望や恐怖、そのまさに人間的な葛藤を理解することは可能です。 それはべつだん罪悪の正当化ではありません。かれらの犯した罪を罪と認めることと、その人物への洞察をそこで打ち切ってしまうことは違うのだということ。 ぼくが異議を唱えているのは、ある罪を責めることではなく、その罪だけでひとりの人間のすべてを説明しきれると思い込み、さらにはかれに共感したり感情移入したりする読者の人格まで一方的に決めつけることです。 なるほど、そうやっていつまでもXで自分が「悪人」とか「クズ」とみなしたあいてを「善人」の立場から攻撃して満足していればしあわせではあるのかもしれない。 しかし、そういった「自分たちは善、あいて側は悪」と前提してひとを攻める姿勢はオタク側が「女性」や「フェミ」を共感不可能なモンスターとみなして糾弾し攻撃する態度の鏡写しでしかありません。 いいかげんそういうしょうもない次元の話はやめませんか、といっているのです。 こう書くときっとオタクからも批判が寄せられるだろうけれど、ぼくは『無職転生』に非難が集まること自体は理解できるのです。 なるほど、ルーデウスは気持ち悪い性犯罪を犯している。それは悪だし、罪だ。倫理的には許されないし、感情的にも受け入れがたい。 その「罪」を責めることそのものはいたって正当でしょう。 けれども、一方でそれはルーデウスの一面であってすべてではない。人間とはそんな単純なものじゃないからです。 そう、あえて誤解を恐れずいうなら、ヒトラーだろうがスターリンだろうがポル・ポトだろうが、その加害があまりにも巨大で重大なものであることを認めるとしてもなお、そういった一面だけを見て単純には語れないはずです。 かれらですらまた決して悪魔でも怪物でもなく、ただのひとりの人間であるに過ぎないからです。 じっさい、ヒトラーを主人公にした映画も色々ある。人間をあくまで人間として見るとはそういうことであり、それこそが人類がえいえいと生み出してきた物語というものの価値、また『無職転生』のテーマなのだと思います。 ひとの罪や責任は追及するにしても、その人格そのものを全否定することはしない。できない。それが自分自身の独善を避けるということの意味でしょう。 そしてぼくは自分自身もまた無垢ではありえないことを自覚するがゆえに、あえて他者の存在と尊厳を否定しないことを選ぶ。まさにルーデウスがヒトガミに対してそうしたように。 たとえそれが自分自身にとって都合よいことではなく、ただ無邪気に幸福なままではいられないとしてもね。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第八章) ぼくはひたすら石を投げ合うことにはうんざりです。あなたは、どうですか。
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「この世界でウマと書かれているのは地球でいう馬ではなくウマという名のべつの生き物のことです」っていい張った小説があって、『グイン・サーガ』っていいます。そのうち飽きたらしく混ざるようになったけれどw
『ファンタジーなのに超ド級とかいう単語が出てくるのおかしいですよね、異世界にドレッドノート級戦艦が居るんですか?』と非難してくる人は、少し落ち着いた方が良いと思う。 ①設定で実際に異世界ドレッドノートが居る。 ②ド級のドはドラゴンのドのことだが? ③弩(ど:いしゆみ)のことだが?
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シャーロック・ホームズ本編には「初歩的なことだよ、ワトスン君」というセリフは存在しないという話とちょっと似ている。
薬屋のひとりごとの『これ毒です』。 毒味役の猫猫が仕えてるのが帝の妃なので、そんな頻繁にこれ毒ですが生じると困るんだよね。言うほど決め台詞でもないし、単なる序盤の台詞というか。
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>楽しめない作品を追い続けてその作品に対して自分の理想を押しつけるような批判を繰り返すならいったい何を求めて読んでいるのだろう? これねー、いってしまえばこの世のあらゆる創作は赤の他人が作っているわけで、自分の理想通りにならないのは当然のことなんですよね。 でも、世の中には「これこそまさに自分の理想そのものだ!」とカンチガイさせる奇跡的な作品がまれにあって、そういう美しい例外を生み出せる人を正しい日本語で「天才」と呼びます。 尾田栄一郎はまさにそういった稀有な天才作家の一人でしょう。 問題は、それはあくまでカンチガイのドリームであるに過ぎないので、いつかは冷めるということです。 いや、その夢が冷め切るまえに作品が完結してしまえば良いのだけれど、『ONE PIECE』のような長期連載となると、必ず作品は受け手の理想から「ズレる」。 これは作品のクオリティが下がるからというよりはもっと構造的な問題で、つまりひとりの受け手が感じ取れる面白さの範囲は一般にごく狭いということなんだと思うんですよね。 だから、作品の面白さがその狭いフレームからちょっとでもズレると、もう受け止められなくなって「昔のほうが面白かった」、「昔みたいにやってくれ」といいだす。 しかし、まあ、批判したり糾弾している人もほんとうはわかっているんでしょう。 いくら批判したところで「ぼくたちが好きだった『ONE PIECE』」は戻って来ないって。 でも、その事実を認めることが哀しすぎるから作品や作家に「戻ってきてくれ」と願いながら叩く、叩く、叩く。 ムダなんだけれどね。 どうしたってムダに決まっているんだけれど、その気持ちはまあ、わからなくはない。 ただ、「自分の理想通りであれば誉めそやし、思い通りにならなかったら叩く」って、それは作家を自動販売機か何かのようにあつかっているようにも思えます。 だから、他人にはそんなに期待しないほうが良いと思うんですよ。 「これこそまさにおれが待ち望んでいた作品だ!」って、いや、それはただのカンチガイだから。 『ONE PIECE』じゃなくて、『エヴァ』でも、『ファイブスター物語』でも、『グイン・サーガ』でもそう。 「読者を裏切ったな!」とかいっても、さいしょからそんな約束はしていないだけ。 ぼく自身は他人の作品に失望したり幻滅したことはあっても、そのために怒ったことはたぶんない気がします。 だから、どうしてもそんなに怒らなくてもいいじゃん、と思ってしまうのですが――まあ、我慢できないんでしょう。 作品と読者の関係はどこか恋愛に似ている。 蜜月の日々が甘ければ甘いほど、ケンカ別れは哀しく切ないものなのです。
1997年生まれの僕にとって ONE PIECEは一緒に人生を歩んできた 大切な漫画なんですよね。 ONE PIECEが大好きだからこそ、最近の批判を見て思うことがある。 僕はONE PIECEを 批判すること自体が悪いとは思わない。 読者には作品を楽しむ自由があるし、面白くないと感じる自由もある。 実際、批判的な人が 持ってる意見ってこんな所でしょ ・昔のシリアスな戦闘描写のほうが好きだった。 ・ギア5のコミカルな演出が自分には合わない。 ・最近の展開は期待していたものと違う。 ・以前のルフィの戦い方のほうが好きだった。 こうやって個人の感想を 持つことは悪いことじゃない。 でもさ、、 「自分は好きじゃない」という感想と、「だから作品の描き方がおかしい」という主張は、同じではないよね。 ギア5の戦闘描写が苦手なら 「自分はシリアスな戦闘のほうが好きだから、ギア5の演出は好みじゃない」 と言えばいい。 そう思うだけなら あなたの感想だからね。 でも、「もっと真面目に戦うべきだ」「あんなふざけた戦闘はONE PIECEにふさわしくない」と言い切るなら、話は変わってくる。 なぜなら、 『ONE PIECEはこうあるべきだ』という その人自身の価値観の押し付けだから。 思う事は自由。 それを押し付けるのが問題。 それと、プロの漫画家がプロの漫画家に批評するならまだしも、漫画を描いたこともない一般の読者が、プロの作品にあれこれダメ出しする構図にも違和感がある。 もちろん、一般の読者が意見を持っちゃいけないと言っているわけじゃない。 自分の好みや価値観が絶対的な正解だと思い込み、それを作者に押しつけるような姿勢に違和感を感じるって話。 結局さ、 これだけ批判しても ONE PIECEを見てる人達って ① 昔から好きだからこそ、期待が大きい ② 作品に対する期待と、作者の表現が一致していない ③ 不満を語ること自体が、その人の楽しみになっている って具合でしょ。 このどれかに当てはまってるんでしょ。 僕は楽しめない作品を追い続けて その作品に対して自分の理想を押しつけるような批判を繰り返すなら いったい何を求めて読んでいるのだろう? とは思うけどね。 結局皆んなONE PIECE好きなんでしょ。
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>クズ人間も真人間になれるのが禊では? >被害者への謝罪や刑期の全う、その後の人生をかけた贖罪…それをルーデウスがやったか否かじゃないですかね? これは、とても重要な論点だと思うので、引用したうえで言及しておきたいと思います。 まず、初めに指摘したいのはこの論法もひとつの二元論なのではないか、ということです。 人間という多様な存在を「クズ人間(悪)」と「真人間(善)」に分けて考えているように見えるわけですが、ぼくがくりかえし述べているのは「そもそもそういった分類は不可能である」ということです。 ただし、人間を善悪賢愚正否の二種類に分けられないことと、ある加害に対する責任がどう問われるべきなのかはまったくべつの問題であることは当然です。 ぼくもある人物に複雑な側面があることから謝罪やつぐないが不要になるとは考えていません。 むずかしいのはここからで、そういうふうに人間はなかなか善悪に分けられず、なおかつしばしば矛盾しているように見える行動を取るわけなのですが、それにもかかわらず、ぼくたち(の、まあ大半)は物語に「因果の一貫性」を求めるものなんですよね。 つまり、悪いやつはことごとく裁かれ、善い人間は一様に報われてほしいという、一貫的な展開を求める欲望がある。 それが「つねに」通ることは、いってしまえば「ウソ(フィクション)」なのですが、多く人間はどうしてもそういうファンタジーを求めるものだと思うのです。 で、『無職転生』なのですが、その意味ではたしかに因果応報がなされていないところがあります。 それを「おかしいじゃないか!」と感じるのはわかります。 罪に対して罰がくだされていない、つぐないもまたなされていない、と。 しかし、その一方でたとえばルーデウスをいじめて校門に裸で貼りつけた連中などもまた何ひとつ裁かれてはいないんですよね。 歴然と「悪」を成した人間がのうのうと放置されている。 これは、もう、そういう話なんだと考えるべきなのではないかと思います。 善は必ずしも報われないし、悪も必ずしも裁かれない、そういう意味での現実的な肌触りがこの作品にはあって、ルーデウスの過去の行状について被害者への謝罪やつぐないがあまり描かれていないこともその一環として見るべきなのではないか、と。 念のために書いておくと、これは「いじめた連中も裁かれていないのだからルーデウスも裁かれなくてかまわない」という話ではありません。 それはそれで物語に「因果の一貫性」を求める論法です。じっさいはもっとめちゃくちゃ。 ぼくはそういった非対称な人生描写に、作品を読むうえで重要な手がかりがあると感じます。 もちろん、『無職転生』の展開はところどころご都合主義で、あくまで娯楽活劇、エンターテインメントには違いないのだけれど、定期的に差し挟まれる「ターニングポイント」やキャラクターの死亡エピソードの重苦しさを見てもわかるように、あきらかにただ気持ち良く進むだけの物語でもない。 そこら辺を踏まえたうえで、作品の良し悪しを語っていくと、いくらか面白い話ができるのではないかと考えますが、どうでしょうか。
Replying to @kaien
クズ人間も真人間になれるのが禊では? 被害者への謝罪や刑期の全う、その後の人生をかけた贖罪…それをルーデウスがやったか否かじゃないですかね? 未成年女児裸体盗撮はそれが必要な犯罪ですよ被害者家族の未来を捻じ曲げてしまうのですから
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意外と広がっていて嬉しい。
このポストはわりとマジメに書いたので読まれてほしいのだけれど、こういうのは拡散しないかなあ。良ければご一読ください。
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有名人じゃん。
うおびっくりした。昨日のゼンゼロに対するポストえらいバズっとるな。そんな大したことは書いてないと思うが。
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このポストはわりとマジメに書いたので読まれてほしいのだけれど、こういうのは拡散しないかなあ。良ければご一読ください。
>人間は善人と悪人に分けれます。 そうですか……。そこまで素朴に断言されると少し困りますが、伝わるかどうかわからないけれど、なるべくわかりやすくこちら側の意図を説明しましょう。 えーとですね、べつに「善と悪、被害と加害は相殺しあう」という話をしているんじゃないんです。 善は善、悪は悪。それはそう。 しかし、善行をなしたら善人、悪行を犯したら悪人、というほど人間は単純ではない、といっているのです。 倫理的に正しい行動と悪い行動というものは、それ自体ときとして判別困難ではあるにしても、あるでしょう。 ですが、倫理的に許されない行動を犯した人間であっても「ザ・悪人」という記号ではない。 ある悪辣な行動を取った人間のなかにも、真心や、優しさや、愛情や、愛された思い出や、暴力的な欲求といった複雑な人間性がありえる。 もちろん、そういった感情なり記憶があるからといってその人の罪が免責されるわけではありません。 たしかに悪は悪であり、罪は罪だからです。ただ、そういった善行や罪悪によってその人の人間性が二分されるわけではないということなんです。 「悪には悪の救世主が必要」とおっしゃっていますね。 これは『ジョジョの奇妙な冒険』第三部のンドゥールのセリフからの引用でしょう。 しかし、現実の人間は少年マンガのキャラクターのように明確に善側と悪側に分けられることはまれです。 現実世界においては大半の人間が善と悪のあいだを行き来しており、仮に生涯いっさい何の悪も成さなかったとしても、悪の誘惑に駆られることはありえるはず。 その意味でその人が「善人」として生きられたことは大きく偶然の影響を受けています。 何かひとつ違っていたらかれもまた悪を成していたかもしれない。違いますか。 そして、いまとなっては少年マンガであっても善悪に分けられない複雑な人間性を描いています。 もし『ジョジョ』を続けて読んでおられるなら、現在、『ジョジョ』第九部の主人公ジョディオ・ジョースターが麻薬の売人であることはご存知でしょう。 その意味ではかれは悪を成している。 しかし、一方でジョディオには明確に家族や仲間を思う心があります。 ジョディオは「善人」でしょうか? それとも「悪人」なのでしょうか? あなたの理屈でいうなら「悪人」であり「ヒーロー的な行動を取っていてもクズはクズ」であるはずですよね。 ですが、そういった評価によって、かれへの理解がすべて尽くされるわけではありません。 ジョディオのなかにある友情や家族愛、火のような野心に共感することと、かれの悪行を肯定することもまたべつのことです。 あなた自身、「クズ人間の中にヒーロー性があったっていい」と語っていますね。その点はぼくも同意します。 ただ、だからこそ、そのヒーロー性や人間としての弱さ、哀しさに感情移入した読者をひとくくりに「クズ人間」と断言できる根拠がわかりません。 ある人物のある感情を理解することは、その人物のすべての行為を支持することではないのですから。 世界の文学史上には(そしてアニメやマンガにも)シンプルに善悪で割り切れない人間性を描いた名作がたくさんあります。 もちろん、マクベスは悪人、ジャン・バルジャンは悪人、ラスコーリニコフは悪人、ルーデウスも悪人。それでおしまいにすることもできなくはない。 ただ、じっさいにはマクベスやラスコーリニコフが犯した罪を認めながら、かれらの欲望や恐怖、そのまさに人間的な葛藤を理解することは可能です。 それはべつだん罪悪の正当化ではありません。かれらの犯した罪を罪と認めることと、その人物への洞察をそこで打ち切ってしまうことは違うのだということ。 ぼくが異議を唱えているのは、ある罪を責めることではなく、その罪だけでひとりの人間のすべてを説明しきれると思い込み、さらにはかれに共感したり感情移入したりする読者の人格まで一方的に決めつけることです。 なるほど、そうやっていつまでもXで自分が「悪人」とか「クズ」とみなしたあいてを「善人」の立場から攻撃して満足していればしあわせではあるのかもしれない。 しかし、そういった「自分たちは善、あいて側は悪」と前提してひとを攻める姿勢はオタク側が「女性」や「フェミ」を共感不可能なモンスターとみなして糾弾し攻撃する態度の鏡写しでしかありません。 いいかげんそういうしょうもない次元の話はやめませんか、といっているのです。 こう書くときっとオタクからも批判が寄せられるだろうけれど、ぼくは『無職転生』に非難が集まること自体は理解できるのです。 なるほど、ルーデウスは気持ち悪い性犯罪を犯している。それは悪だし、罪だ。倫理的には許されないし、感情的にも受け入れがたい。 その「罪」を責めることそのものはいたって正当でしょう。 けれども、一方でそれはルーデウスの一面であってすべてではない。人間とはそんな単純なものじゃないからです。 そう、あえて誤解を恐れずいうなら、ヒトラーだろうがスターリンだろうがポル・ポトだろうが、その加害があまりにも巨大で重大なものであることを認めるとしてもなお、そういった一面だけを見て単純には語れないはずです。 かれらですらまた決して悪魔でも怪物でもなく、ただのひとりの人間であるに過ぎないからです。 じっさい、ヒトラーを主人公にした映画も色々ある。人間をあくまで人間として見るとはそういうことであり、それこそが人類がえいえいと生み出してきた物語というものの価値、また『無職転生』のテーマなのだと思います。 ひとの罪や責任は追及するにしても、その人格そのものを全否定することはしない。できない。それが自分自身の独善を避けるということの意味でしょう。 そしてぼくは自分自身もまた無垢ではありえないことを自覚するがゆえに、あえて他者の存在と尊厳を否定しないことを選ぶ。まさにルーデウスがヒトガミに対してそうしたように。 たとえそれが自分自身にとって都合よいことではなく、ただ無邪気に幸福なままではいられないとしてもね。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第八章) ぼくはひたすら石を投げ合うことにはうんざりです。あなたは、どうですか。
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>人間は善人と悪人に分けれます。 そうですか……。そこまで素朴に断言されると少し困りますが、伝わるかどうかわからないけれど、なるべくわかりやすくこちら側の意図を説明しましょう。 えーとですね、べつに「善と悪、被害と加害は相殺しあう」という話をしているんじゃないんです。 善は善、悪は悪。それはそう。 しかし、善行をなしたら善人、悪行を犯したら悪人、というほど人間は単純ではない、といっているのです。 倫理的に正しい行動と悪い行動というものは、それ自体ときとして判別困難ではあるにしても、あるでしょう。 ですが、倫理的に許されない行動を犯した人間であっても「ザ・悪人」という記号ではない。 ある悪辣な行動を取った人間のなかにも、真心や、優しさや、愛情や、愛された思い出や、暴力的な欲求といった複雑な人間性がありえる。 もちろん、そういった感情なり記憶があるからといってその人の罪が免責されるわけではありません。 たしかに悪は悪であり、罪は罪だからです。ただ、そういった善行や罪悪によってその人の人間性が二分されるわけではないということなんです。 「悪には悪の救世主が必要」とおっしゃっていますね。 これは『ジョジョの奇妙な冒険』第三部のンドゥールのセリフからの引用でしょう。 しかし、現実の人間は少年マンガのキャラクターのように明確に善側と悪側に分けられることはまれです。 現実世界においては大半の人間が善と悪のあいだを行き来しており、仮に生涯いっさい何の悪も成さなかったとしても、悪の誘惑に駆られることはありえるはず。 その意味でその人が「善人」として生きられたことは大きく偶然の影響を受けています。 何かひとつ違っていたらかれもまた悪を成していたかもしれない。違いますか。 そして、いまとなっては少年マンガであっても善悪に分けられない複雑な人間性を描いています。 もし『ジョジョ』を続けて読んでおられるなら、現在、『ジョジョ』第九部の主人公ジョディオ・ジョースターが麻薬の売人であることはご存知でしょう。 その意味ではかれは悪を成している。 しかし、一方でジョディオには明確に家族や仲間を思う心があります。 ジョディオは「善人」でしょうか? それとも「悪人」なのでしょうか? あなたの理屈でいうなら「悪人」であり「ヒーロー的な行動を取っていてもクズはクズ」であるはずですよね。 ですが、そういった評価によって、かれへの理解がすべて尽くされるわけではありません。 ジョディオのなかにある友情や家族愛、火のような野心に共感することと、かれの悪行を肯定することもまたべつのことです。 あなた自身、「クズ人間の中にヒーロー性があったっていい」と語っていますね。その点はぼくも同意します。 ただ、だからこそ、そのヒーロー性や人間としての弱さ、哀しさに感情移入した読者をひとくくりに「クズ人間」と断言できる根拠がわかりません。 ある人物のある感情を理解することは、その人物のすべての行為を支持することではないのですから。 世界の文学史上には(そしてアニメやマンガにも)シンプルに善悪で割り切れない人間性を描いた名作がたくさんあります。 もちろん、マクベスは悪人、ジャン・バルジャンは悪人、ラスコーリニコフは悪人、ルーデウスも悪人。それでおしまいにすることもできなくはない。 ただ、じっさいにはマクベスやラスコーリニコフが犯した罪を認めながら、かれらの欲望や恐怖、そのまさに人間的な葛藤を理解することは可能です。 それはべつだん罪悪の正当化ではありません。かれらの犯した罪を罪と認めることと、その人物への洞察をそこで打ち切ってしまうことは違うのだということ。 ぼくが異議を唱えているのは、ある罪を責めることではなく、その罪だけでひとりの人間のすべてを説明しきれると思い込み、さらにはかれに共感したり感情移入したりする読者の人格まで一方的に決めつけることです。 なるほど、そうやっていつまでもXで自分が「悪人」とか「クズ」とみなしたあいてを「善人」の立場から攻撃して満足していればしあわせではあるのかもしれない。 しかし、そういった「自分たちは善、あいて側は悪」と前提してひとを攻める姿勢はオタク側が「女性」や「フェミ」を共感不可能なモンスターとみなして糾弾し攻撃する態度の鏡写しでしかありません。 いいかげんそういうしょうもない次元の話はやめませんか、といっているのです。 こう書くときっとオタクからも批判が寄せられるだろうけれど、ぼくは『無職転生』に非難が集まること自体は理解できるのです。 なるほど、ルーデウスは気持ち悪い性犯罪を犯している。それは悪だし、罪だ。倫理的には許されないし、感情的にも受け入れがたい。 その「罪」を責めることそのものはいたって正当でしょう。 けれども、一方でそれはルーデウスの一面であってすべてではない。人間とはそんな単純なものじゃないからです。 そう、あえて誤解を恐れずいうなら、ヒトラーだろうがスターリンだろうがポル・ポトだろうが、その加害があまりにも巨大で重大なものであることを認めるとしてもなお、そういった一面だけを見て単純には語れないはずです。 かれらですらまた決して悪魔でも怪物でもなく、ただのひとりの人間であるに過ぎないからです。 じっさい、ヒトラーを主人公にした映画も色々ある。人間をあくまで人間として見るとはそういうことであり、それこそが人類がえいえいと生み出してきた物語というものの価値、また『無職転生』のテーマなのだと思います。 ひとの罪や責任は追及するにしても、その人格そのものを全否定することはしない。できない。それが自分自身の独善を避けるということの意味でしょう。 そしてぼくは自分自身もまた無垢ではありえないことを自覚するがゆえに、あえて他者の存在と尊厳を否定しないことを選ぶ。まさにルーデウスがヒトガミに対してそうしたように。 たとえそれが自分自身にとって都合よいことではなく、ただ無邪気に幸福なままではいられないとしてもね。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第八章) ぼくはひたすら石を投げ合うことにはうんざりです。あなたは、どうですか。
>そもそも人間は善人と悪人に分けることなどできない、どんな悪や罪を背負った者でも善行を果たすこともあるし、逆もある ここがおかしい。というか浅すぎる。 人間は善人と悪人に分けれます。 殺人を犯しても、人をその何倍も助けたらイーブンになるみたいな相殺システムは現実にありません。総トータルで物事は判断されないんです。そんなの加害側の意見でしょうに。被害者側からすれば「他で善行を重ねたので自分への被害はノーカン」にはならないんですよ。 なんで、こんな簡単な事がオタク系の人間には分からないのかというと、「クズ人間に感情移入できるのはクズ人間の法則」を認めたくないからなんです。別に僕はクズ人間の中にヒーロー性があったっていいと思いますよ。悪には悪の救世主が必要でしょうし。でも、彼らにそこまでの開き直りは出来ない。 だって自己否定が少しでも含めたら、創作を楽しめなくなるから。プライド保持は最優先事項なんです。弱者にとってはね。辛い現実がエンタメになるのは実生活で幸福な人間だけですので。
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>ゆえに『無職転生』に限って、主人公の現代的な倫理観の欠如を理由に、なぜここまで作品ならびに作者を攻撃する人たちが後を絶たないのか本当に不思議に思っている。 ぼくにはわかる気もします。 もちろん、前世が気持ち悪いというのもあるでしょうが、その点も含めてルーデウスは何もかも「中途半端」なんですよね。 たとえば夜神月やルルーシュはあきらかに「悪を犯す天才」として描写されているわけですが、ルーデウスは明確な善人でもなく悪人でもなく、無神経なところもあり優しいところもあり、幼いようでいて前世の記憶も持っていて、頭が良いようで間抜けでもあり、つねに境界を飛び越えているというか、境界そのものをかく乱している。  「こいつは善人なのか悪人なのか?」、「天才なのか愚鈍なのか?」といった問いに対し作中にはっきりしたアンサーがなく、どちらか片方の答えを選ぶと矛盾が見え、作者が欺瞞を仕込んでいるように見える。 なので、「境界の明快さ」を前提にした物語を見慣れている人がショックを受けたり混乱したりするのは理解できる。 「どう見ても悪人なのに善人であるかのように描いている!」というふうに受け取られるのだと思う。 しかし、この作品のバリューはそもそもそういった善悪の明快な境界線を疑うところにこそある。 幼児への性加害は少なくとも現代社会の価値観では明確な「悪」であるわけなんですけれど、その直後にルーデウス(の前世)は無関係な他人を助けようとして事故にあっている。 これはまあ、「善」でしょう。 矛盾しているようだけれど、そもそも人間は善人と悪人に分けることなどできない、どんな悪や罪を背負った者でも善行を果たすこともあるし、逆もあるということが、さいしょから明確なコンセプトとしてプロットに組み込まれていると思うのです。 その描写が頂点に達するのがWeb版最終回一話前のヒトガミとの対話で、これはきわめて感動的です。 ネタバレは避けますが、このやり取りひとつ取っても『無職転生』は名作だと感じます。
『無職転生』の件、日本と同じく海外でも同じような論点で議論が紛糾しているけど、擁護側の主張では、引用元が非常に客観的で優れた論点を提供しているように思った。 私自身はルーデウスへの否定的な意見には理解を示しているけど、一方でそれを理由に作品の価値そのものが判断されるのは間違っていると考えているし(作品の好悪の判断理由にはなるが)、更に言えばルーデウスの振る舞いを作者の思想と結びつけて人格批判にまで発展することも間違っていると考えている。 過去にも倫理的に酷い主人公が登場する作品はあり、強烈なインパクトを残してはいるものの、それが理由で作品そのものが否定されていたことは無かったように思うし、作者への人格批判も同様である。 ゆえに『無職転生』に限って、主人公の現代的な倫理観の欠如を理由に、なぜここまで作品ならびに作者を攻撃する人たちが後を絶たないのか本当に不思議に思っている。
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めずらしく少しだけ拡散されているのでちょっと続きを書いておくか。 引用リポストとレスで「ルーデウスは反省しないからダメだ」といった意見が見受けられますが(ぼくのかってな要約なので正確には該当文章をご覧ください)、じっさいにはルーデウスはそれなりに反省し行動を改善しようとすることもあります(そうしないこともある)。 そもそもこの作品のサブタイトルは「異世界行ったら本気だす」であって、作品のコンセプトそのものが異世界へ転生主人公が「こんどこそ本気を出して頑張るぞ」と決意する物語なのです。 で、ルーデウスはわりと頑張って人生を改善しようとし、それはそこそこ成功するわけなのですが、あるところまで行くと決定的な逆転が待ち受けています。 それが、作中に5度にわたって出てくる「ターニングポイント」です。 これらの「ターニングポイント」は、最後の一回を除いて、いずれもルーデウス本人の責任ではまったくないところで人生が決まってしまう展開です。そこには伏線もなければ、物語上の必然性さえあまりないようにすら見える。 しかし、もし『無職転生』が傑作であるといえるとすれば、これらの「ターニングポイント」があればこそです。 それら「ターニングポイント」はあえていうなら「人生の偶然性」の象徴なのです。 どんなに必死になって人生を築き上げても、ささいな偶然で一瞬にして崩されることがありえる。『無職転生』はその事実を繰り返し繰り返し残酷なまでに強調します。 それは通常の物語の作劇の方法論では捉え切れないような展開です。 ふつう、主人公が長年にわたって築いた業績が何でもない偶然ひとつで崩壊したら読者は納得しない。 でも、『無職転生』ではそれが何回にもわたって続くわけです。そういう話なんだ、としかいいようがない。 面白いのは、こういうこの作品の構造が、その後のなろう小説の「ざまぁ」的なカタルシスとはまったく異なっているように思えることです。 そういう意味では、『無職転生』は「なろう」の頂点に近いところにある作品でありながら、あまり「なろう」らしくないという気もする。 『転スラ』あたりのあまりにも現代的な「もてなしの良さ」と比べるとむしろ古風なスタイルなんじゃないかな。良くも悪くも。
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まだ48歳だからぼくは大丈夫。
>50歳以上の年齢でアニメを見るのは ちょっとおかしい なんだ私のことかw
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ぼくはこれ見に行った。クオリティがどうこうじゃなく完全な未完成品で、放送事故ならぬ上映事故レベルの珍品でした。
シャフトが魔法先生ネギま!のファンから未だに恨まれてるのは「最後のアニメ化として制作された劇場公開版が話がカット間で繋がってない未完成品だった」という事実があるからなので……。完全版の本編時間が2倍ぐらい増えてたから、半分未完成で流してるのはマジ……
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