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体力とは全く別の領域で、生命力そのものが過剰に溢れている人というのは確かにいて、それをどこかでアースしないと苦しくなってしまう。動き続ける人もいれば、創作することで放電する人もいて、その方法は人によってさまざまだけど、共通しているのは、動かないでいると内圧がどんどん上がり、焦燥感や不安、場合によっては破壊衝動のような形で出てしまうということ。
生命力が過剰な人にとっての課題は落ち着くことではなく、「どう循環させるか」で、抑え込もうとすると、行き場を失った力が過敏さや情動の爆発として現れる。けれど、へ流せる経路がある人は、運動でも創作でも、人との関わりでも、自然にバランスを取って生きられる。
過剰さは扱いを間違えると自分を焼く火でもあり、よく流せば創造の原動力にもなる。問題は多すぎることではなく、循環できているかどうか。
結局のところToDoリストに勝る反芻対策はない。反芻しやすい人は物事を深く考えすぎることが問題なのではなく、ワーキングメモリの更新や抑制がうまく働かず(ワーキングメモリは記憶を保持する能力でありながら、同時に今は必要のない情報を手放す能力も担っている)、すでに考え終わったことや今すぐ考える必要のない情報まで意識の中に残り続けていて、反芻そのものが体力を消費するので、どんどん思考を切り替えにくくなる。
ToDoリストに書き出して、今やること、あとでやること、そもそも自分が対処する必要のないことを外部で整理するしかなくなる。書き出すことで覚えておく必要がなくなり、考えるべきタイミングも明確になる。反芻を止めようと頭の中でさらに考え続けるより、頭の外に情報を出してワーキングメモリの負担を減らす必要がある。
やらなければいけないタスクが頭の中に引っかかっていること自体が体力を消耗するし、目の前のタスクに着手する負担から逃れるために、別のことを延々と考え続ける反芻中毒のような状態に陥ることもある。反芻そのものは不快でも、面倒なタスクに向き合わずに済むという短期的なメリットがあり、現実逃避の手段として習慣化してしまうことがある。しかも、反芻している間にも未完了のタスクは頭の中に引っかかり続け、ワーキングメモリにさらに負荷をかける。
着手のハードルを無駄に上げてしまうこと
・一度始めたら、最後まで一気に終わらせなければならないと思っている
・まとまった時間が確保できないと、始めても意味がないと思っている
・始める前に必要な手順をすべて把握しておこうとする
・今の気分が乗っていないなら、始めても良い結果にならないと思っている
・せっかく取りかかるなら、達成感のある成果を出さなければ意味がないと思っている
・少しでも手をつけたことを進捗として認めず、少しだけ進めても、全体から見れば大した進捗ではないと考える
・始める前から「こんな簡単なこともできない自分はダメだ」と自分を責める、着手することを、自分の能力や適性を試される機会として捉えてしまう
・着手が遅れていることに罪悪感を覚え、その罪悪感を解消してから取りかかろうとする
・以前うまくできなかった経験を思い出し、今回も同じように苦労する前提で考える
・着手するたびに「今度こそ継続する」と決意し、ただ始めるだけの行為を大事にしてプレッシャーに圧倒されてしまう
・何かを始めることに、今までの自分を変えるという大きな意味を持たせてしまう
・始めることへの抵抗感を、その物事が自分に向いていない証拠だと解釈してしまう
・自分の中にある抵抗感を、行動によって薄れさせるのではなく、思考によって解消しようとする
自分の人生に納得している人は自分の選択が他人から奇異な目で見られたり、理解されなかったりすることも十分に腑に落ちた上で、それでも自分の内発性に強く動かされた結果としてその選択に満足しているから、自分の選択が正しかったと思うために、他人からの否定的な反応を「本当は羨ましがっているだけ」「理解できる人には分かる」などとわざわざ解釈し直すような認知コストが高すぎる行為をそもそもしない。
他人が理解できないことも、否定的に評価することも、その人にとっては普通にあり得る反応の一つでしかなく、そこに隠された嫉妬や劣等感を見出す必要がない。自分の選択への納得が他人の評価に依存していないからこそ、否定的な反応を否定的な反応のまま受け取れるし、相手の認識を自分に都合よく書き換える必要もない。
内発的な充足が十分にある場合、他人の否定を嫉妬や劣等感に変換してまで自分の選択を正当化する必要性は無くなる。
どこかで自分の選択が本当に正しかったのか不安が残っていると、他人からの否定がその疑念を刺激してしまうから「本当は羨ましがっているだけ」「理解できる人には分かる」と解釈することで、自分の選択に間違いはなかったというコストの高い勘違いが必要になる。
自分の選択にも欠点はあるし、別の選択をしていたら得られたものもある。それでも自分はこれを選びたかったし、今も選んでよかったと思っている。自分とは異なる価値観を持つ人から否定されたというだけの出来事でしかない。
自分の選択が正しかったと証明し続けなければならない人と、正しかったかどうかにかかわらず自分の選択を引き受けられる人の違いでもあり、その場の不安を減らすことには成功しても、不安を生み出す前提が決して消えないことに自己正当化が長期的なコストが高い理由である。
人望がなかったわけでもないのに、徐々に人から助けてもらえなくなるパターンは決まって周囲の人から時間や労力を受け取った上で「自分は周りに恵まれていない」などと平気で公言してしまうことだと思う。
意識としてはただ自分の苦労や不遇を語っているつもりでも、それを聞いた人からすれば、自分がしてきたことが何もなかったことにされているわけで、そんなことが続けば手を差し伸べる気がなくなる。恩を返してほしいわけでも、いちいち感謝してほしいわけでもない。ただ、自分の労力が相手の中でまったく認識されていないと分かれば、そこにこれ以上リソースを割く理由がなくなる。周囲が冷たくなったと思いがちだけど、実際には自分を助けてくれていた人たちの存在を自分で無効化している。
自分の人生を180度変えてくれるような人でなければ、相手が自分のために時間や労力を割いてくれたことすら認識できる状態になく、他人がどれだけ自分の都合を調整してくれたか、どれだけ負担を引き受けてくれたかではなく、最終的に自分の苦しさが解消されたかどうかでしか他人の貢献を評価できない。
いくら助けてもらっても自分の人生が劇的に変わらなければ「誰も助けてくれなかった」という認識になる。他人が自分のために払ったコストと、自分が得られた満足を区別できない。少なくとも、他人の人生を根本から立て直したり、本人の物事の受け取り方や認知の癖を変えたりすることは、専門的な知識のない友人や家族、恋人が気負って引き受けるような領域ではない。
貴族メンタリティを持つ者は「仮に復讐ができるとしても、復讐を果たすまでにかかる自分の大切な時間や感情や体力を、自分を傷つけるような相手のために少しも割きたくない」と考える。相手を許しているわけでも、仕返しする能力がないわけでもなく、そもそも自分の人生において相手にそこまでの重要性を与えたくない。復讐を遂げたところで失った時間が戻ってくるわけでもないし、その間ずっと相手の存在に自分の生活を支配されることのほうが耐えられない。自分の人生の主導権を取り戻すために、わざわざ相手を中心に据えた人生を送る必要はないという感覚がある。
他人にすぐ自分の人生を明け渡すメンタリティでいると、相手が報いを受けなければ自分の尊厳が回復しないと思ってしまうことにあるから、復讐しない人を見ると、「やり返す力がない」「泣き寝入りしている」「負けを認めている」と解釈してしまうが、貴族メンタリティにおいては、そもそも自分の尊厳は相手の処遇によって決まるものではなく、相手が幸せになろうが不幸になろうが、自分の幸せや価値には何の影響もないことが腑に落ちている。
人を見る目がない人は本当に見る目がないのではなく、無自覚に自分の感覚を否定する癖があるからそうなっている。人を見る目を養おうとして、他人を分析する能力ばかり高めても意味がない。
人を見る目がない人の問題は、相手の情報を読み取れていないことではなく、読み取った情報を自分で無効化してしまうことにある。例えば、相手の言動に違和感を覚えたとき、分析する癖が強い人ほど「この人は過去にこういう経験があったから」「悪意があるわけではないから」「本人なりに努力しているから」と、いくらでも説明をつけられるし、分析能力が高ければ高いほど、相手の問題行動に対しても複雑で説得力のある解釈ができてしまう。
ここで起きているのは、相手への理解が深まることと、自分にとってその人が適切な相手かどうかを判断することの混同で、相手がなぜそのような行動を取るのかを理解できたとしても、自分が不快に感じた事実は変わらないし、相手に悪意がなかったとしても、繰り返し傷つく関係を続ける理由にはならない。
そもそも人を見る目は、相手の本性を見抜くような特殊能力ではなく、自分が相手と関わる中で何を感じているかを正確に受け取り、その感覚を判断材料として扱える能力であり、いくら他人の心理を理解できても、自分の違和感を毎回理屈で打ち消していたら、いつまで経っても人を見る目は養われない。必要なのは他人をもっと深く分析することではなく、すでに自分が感じ取っていることを、理解や共感の名目でなかったことにしない。
「こんなに頭を使いながら恋愛してて楽しいのか」ってコメントがあるけど、逆に感覚に全振りしていないとこんなことはできない。フリーズ癖があって頭が凝り固まった状態で人と付き合っていると、モヤモヤや違和感という大事なサインが出ていても「でも顔は良いし、こういうところは好きだから」とあれこれ理由をつけて自分の感覚を打ち消してしまい、後々大きな問題が出てくる。
この方は感情表現の振れ幅が大きいだけで、根本的には大切に育てられて、自分の感覚を信頼することも、自尊心を安売りしないことも当たり前になっているんだと思う。男性を見極めるために必死に頭を使っているのではなく、違和感があれば違和感として受け取り、心地よければ心地よいと感じられる。自分の感覚をいちいち理屈で説得して捻じ曲げないからこそ、結果的に人を見る目が養われている。
過剰な緊張が心身に悪影響を及ぼすことがあるのも間違いないけど、特に女性の方を見ていて多いのが、自分では緊張が強いと思っていても、実際には全身の動きの連動性や体感の安定性(細かくは今は割愛します)が弱いことが問題になっているケースで、身体の各部位がうまく協調して動かなかったり、自分の身体が今どのような位置にあって、どの程度の力を使えば安定するのかという感覚が曖昧だったりすると、動作のたびに多くの調整が必要になってぎこちなくなる→疲れやすくなるのを「力が抜けない」「身体が緊張している」と感じることがあるが、その原因をすべて筋肉の硬さや過緊張だと捉えて、とにかく緩めなければとストレッチやマッサージ、リラックス法ばかりに意識が向くとかえって遠回りする。
たとえば、姿勢を維持するだけで首や肩に力が入ってしまう人は、必ずしも警戒心が強いから首肩の筋肉が硬すぎるわけではなく、股関節、肩甲骨などが十分に協調して働かないために、特定の筋肉へ負担が集中している場合がある。このような人に必要なのは、筋肉をひたすら緩めることだけではなく、身体のどこを、どの程度の力で使えば無理なく安定するのかを、動作を通じて学習することです。呼吸と動作を協調させたり、骨盤や胸郭の位置を感じ取ったり、低負荷の運動を繰り返しながら姿勢制御を練習に向いてる人がピラティスや太極拳と相性がとても良かったりする。
「どこに行っても緩めてもらった直後は楽になるのに、すぐ元に戻るんです」というお悩みで来られる方がいますが、これは別に今まで通っていたところの施術技術が悪かったわけではなく、日常的に代償動作が多すぎて、同じ筋肉に繰り返し負担が集中していることが原因になっていて、本来は全身で分散できるはずの負荷を一部の筋肉で補うことになり、緩めても普段の生活に戻ればまた同じ場所に負担がかかってしまう。そもそも筋肉が硬くなっていることと、その筋肉が硬くならざるを得ない身体の使い方をしていることは別の問題なので、緩めるだけでは解決しないケースもある。
こうした悩みは、筋肉をひたすら緩めるよりも、身体の各部位を協調させて動かすトレーニングを始めることで、特定の筋肉に頼りすぎる動作が減り、結果的に疲れにくくなったり、緊張が戻りにくくなったりする。身体に必要なのは、いつでも脱力していることではなく、必要なときに必要な筋肉が適切なタイミングと強さで働き、余計なところに負担をかけずに動けることです。
嫌いなものの言語化ならいくらでもできるけど、好きなものの言語化が苦手な人は嫌いなものに敏感というわけではなく、そもそも自分にも言語化できる、自分の理解が及ぶ程度のものにはあまり惹かれないのだと思う。
嫌いなものは何が嫌なのか、どこが自分の感覚と合わないのかを説明できるけど、本当に深く好きなものは自分の理解や解釈を超えたところに魅力があって、いくら言葉を尽くしてもその本質には辿り着けない。
分からないことが不快なのではなく、むしろその分からなさ自体が心地よくて、広大な美しい海をいつまでも泳いでいるような感覚になる。どこまで行っても知らない景色が広がっていて、理解し尽くすことも、何か一つの答えに辿り着くことも望んでいない。分からない部分を解消したいのではなく、どこまでも奥行きがあって、自分の理解を超えた世界が存在していることそのものに魅了される。
代謝オタク失礼します
通常のサプリ摂取量でもまれに肝障害を起こす負担がかかりやすい成分はEGCG、ウコン、クルクミン、ビタミンA、ナイアシン(B3)、ガルシニア、アシュワガンダ、カバ、鉄、漢方・生薬成分の重複あたりです。
サプリを飲んで肝臓をやられる人の共通点は複数のサプリを飲んでいてそれぞれの商品に“共通する”成分が含まれていることを計算せずに結果的に過剰摂取しているケースや、生薬や高濃度植物エキスの長期使用していることが多いです。
漢方によくある甘草を長期間ずっと飲み続けて偽アルドステロン症の副作用が出たりすることもある。
ビタミンCや亜鉛、クエン酸のような成分はそもそも肝毒性が低すぎるので(特に亜鉛は容量を守れば◎)過剰な心配は要らないです。





